【始まりを探して】片瀬山住宅地造成の頃 その3

土地価格高騰に追われて・・

今から54年前第1世代の入居が始まった頃、自分たちの家を持ちたいという人たちを突き動かした気持ちはどんなものがあったのでしょうか。当時給水塔(腰越配水池)のすぐ下にプレハブの三井不動産の現地事務所があって、そこで申込みの受付や現地案内等が行われていました。当時の状況を私(=Reporter)の母親に聞いてみました。

今買わないと、という焦り
「うちも1968年春の新聞広告を見て、申込む事にしたしたのだけど、現地案内所にいってみたらすごい勢いで予約が埋まっていたのよ。実際に区画を見て『ここなら何とか手が届くかしら』と事務所に行ってみたら、『今売れました』って言われて、ではこちらへ と走って見に行くという感じだったのよ。春の段階では道の舗装もまだで足元が悪くて大変だったわ」
当時は「土地神話」が根強い時代で、土地の価格は毎年物価より高い比率で必ず上昇していました。給料はそんなに増えませんから、迷っていると遠い所不便な所しか買えなくなるわけです。
「他にも沢山の土地を見て歩いたけれど、ここは断然環境良かったわね。ここしかないと思ったけど、今買わないと値上がりして買えなくなるという強迫観念に追われてたのよ。すぐ後に石油ショックで全く買えない値段になったから、実際あの時しかなかったわね」というのが母の弁です。昭和後期~平成にかけての土地価格の前年比推移のグラフを見つけましたので示します。バブル崩壊で本格的に土地価格が下がる前までの戦後40年余り土地神話は生き続けました。

出典:「地価にみる日本の今」伊藤裕幸より 赤線が住宅地価格の推移 昭和43年頃は毎年前年比20%弱の価格上昇 バブル崩壊以降は前年比はマイナスとなり、以降土地価格は下がり続けた

グラフを見ると昭和43年(1968年)頃は年間約2割の値上がりペースでした。1968年12月に片瀬山の土地広告第3弾が掲載されました。この頃になると、次回販売予定の情報提供のための登録の仕組みができ、その登録者に販売日程・内容を伝えるという形になったようです。いかに申込み・問合せが多かったのかがわかります。この頃は半年ごとに発表される次の工期ごとに価格が上がり、お金の算段がつけば少しでも早く土地を手当したいと思っていた方が大半でした。西鎌倉は片瀬山の2年前に販売されたのですが、その価格と片瀬山の価格を併せて、当時の土地価格の高騰ぶりを示すグラフを作ってみました。同じ片瀬山でも4年半で約2倍になっています。

西鎌倉と片瀬山の新聞広告の坪単価の上下限を発売時期でプロットしたもの

そして、1967年から発売開始から約4年たった1971年春に大きなものとしては最後の新聞広告の掲載がありました。

全体像を現した住宅地 イラストでの説明 金利はなんと10%超え

この時点ではまだモノレールが開通していなかったのですが(同年7月開通)、その影響もあったのか、一段と価格の高騰は進みました。この後石油ショック後の狂乱物価が起こり、さらにとんでもない価格になりました。人間たちの巣作りの大変さをよそに、毎年片瀬山の「草原」にはひばりの巣ができて、空にはひばりの声が毎日響きわたっていました。今では想像もできない風景ですが、そんな時代もありました。
(Reported By S)

◆◆◆◆【始まりを探して】シリーズコンセプト
片瀬山ができて50年以上たちました。長い間に少しずつ整備されてきた施設・モノ(ハード)や仕組み・制度・活動(ソフト)等の始まりの時に、どんなことがあったのか、どんな思いがあったのか?今に残るモノ、資料、証言などを調べて伝えることで、その価値や将来について考えるシリーズにしたいと思います。ご期待ください。
【本シリーズからのお願い】片瀬山に関係する古い写真や資料をお持ちの方はお知らせください。例:片瀬山のパンフレット、周囲の様子がわかるスナップ写真、学校・幼稚園・プール・公園等の写真、バス等公共機関等の写真、当時の新聞記事、自治会の資料、卒業アルバム等古いものであればあるほどありがたいです。皆様のご協力をお願いいたします。
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