【片瀬山の歴史】片瀬山が「鉄砲場」だった頃 その1

江戸時代 片瀬山1丁目は大筒(大砲)の発射場所だった

Google Earth から 地名は筆者追記

上は現在の片瀬山1丁目上空から藤ヶ谷・鵠沼・辻堂方面をGoogleEarthで見渡した所です。今、片瀬山1丁目・片瀬給水池のある片瀬丘陵北端は古くから駒立山と言われていましたが、江戸時代には相模湾沿岸を一望できる見晴らしを生かして、ここから鵠沼方面に向かって練習のために大筒(大砲)を撃っていました。
江戸時代中期から140年間湘南海岸砂丘地帯は幕府の砲術演習場だった
将軍吉宗の享保の改革(享保13年1728年)で藤沢から茅ヶ崎にかけての海岸地帯に大筒を撃つための今でいう 演習場 が設置されました。その名は「鎌倉大筒調練所」、一般には「鉄砲場」と言われました。「鉄砲」という名がついていましたが、実際には「大筒」と呼ばれた大砲の砲術の演習場で、幕末の慶応3年1867年に廃止されるまで約140年間にわたり幕府の主要な砲術演習場でした。今回はこれにまつわる人と事件について2回にわたって連載します。海岸地帯一帯が「鉄砲場」だったのですが、駒立山(片瀬山)に置かれたのは、
◆下ケ矢(さげがや) という 高い所から下に向けた砲撃の発射場 でした。現在の片瀬山1丁目から鵠沼方面に向かって藤沢宿と江の島を結ぶ街道(江の島道)の真上を飛び越えて砲撃が行われました。江の島への参詣者が行きかう江の島道の上を砲弾が飛ぶという事であり、実際の砲撃の期間は道は通行禁止になったと思われます。江戸後期の片瀬村絵図や江の島道の街道図の多くには駒立山の「鉄砲場」について記述があります。

駒立山に 大筒御鉄砲の場所 とあり、そこには三本の木(松)が書かれている 境川(当時は片瀬川と言われた)沿いに江の島道、馬喰橋(うまくらばし)が記されている 馬喰橋歴史散歩に掲載した地図(藤沢市文書館所蔵)の左部分 江戸後期

この演習場の各地では他に様々な砲撃方法の訓練が行われました。
◆町(丁)打(ちょううち) 平地での遠距離砲撃の訓練(着弾距離を伸ばす)
角打(かどうち)  近距離射撃訓練(命中精度を高める)
◆船打(ふなうち)  片瀬川河口近くの三百石船に載せた大筒から鵠沼村への砲撃訓練
これらの演習場所の位置関係を次の地図に示します。

明治20年陸軍測量部の地図 演習方法ごとの発射場所を 着弾場所を矢印←——で追記(筆者) 着弾場所はほとんどが砂場や砂丘の松林 後からできた鉄道が記されいる 茅ヶ崎の「鉄砲道」もわかる

杭を立てて砲弾の飛距離を一目でわかるようにした
下ケ矢角打では砲弾の着地場所や距離が、見張り小屋から見てすぐわかるように杭を立てました。この杭の図が藤沢市文書館に残っています。

天保10年(1839年)の片瀬村絵図 右下に三本松(下ケ矢の砲台のある所)が記され、そこから鵠沼村、藤ヶ谷等の杭が打たれた場所が黄色い杭で記されている。 藤沢市文書館蔵 の一部

1000人程度が16日~25日間参加して演習が行われた
16日~25日間の演習期間が設定され、この期間に砲術師範の資格を持つ幕府鉄炮方の指導のもと、鉄砲や大筒にかかわる幕府の組頭、与力、同心等の幕府役人が各組数十人に分かれて、広大な演習領域で様々な演習に参加しました。延べの参加人数は1000~1800人程度になりました。時期は4~7月頃の農繁期になる事もしばしばで、助郷(すけごう)や宿泊場所提供等で近隣の住民にとっては大変な負担でした。演習は設置当初20年程は毎年行われましたが、以降はほぼ隔年開催となり、さらにその後は間隔が開きました。周辺住民の負担軽減が考慮されたと言われています。

当時の片瀬・鵠沼・辻堂の様子
当時の片瀬・鵠沼・辻堂の様子はどうだったのでしょうか。鉄砲場だった頃とまだあまり変わっていないと思われる明治15年の地図に畑や田や松林等の土地利用の様子が記入されており、水田砂原松/椎と重ね書きしてみました。人家のある所は建物が描かれています。  

明治15年測量第1軍管地方2万分の1迅測図復刻版 藤澤駅・片瀬村・関谷村各図の一部を筆者がつないで作成 北方を東西に通る道が旧東海道 明治の地図なので畑や水田とあるが、江戸時代鉄砲場内では公式には耕作が禁じられていた

下ケ矢の発射地点だった今の片瀬山1丁目片瀬配水池あたり(駒立山)は標高69mでそこには各種施設を建てられる比較的広い平らな場所があり、着弾地域であった鵠沼・辻堂付近は砂丘の松林と、海岸近くは砂原ばかりだった事がわかります。

次回は こうした幕府直々の大規模演習が行われる時、地元ではどんな事が起きていたのか?そしてそこで起きたある事件についてご紹介します。
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注)今回の連載では、一般名の鉄砲は「鉄砲」と書き、幕府役職名「鉄炮方」は「鉄炮」で統一しました。
また参照文献は次回の文末にまとめて記します。