京浜急行有料道路の終焉とその名残
日本最初の有料道路として誕生した江ノ島-大船間の有料自動車道路ですが、前回述べたように昭和25年(1950年)京浜急行がバスの運行と、料金所を設置して通過する自動車から料金を徴収する有料道路の運用を再開しました。
戦後の活況
高度成長期を迎え、江の島周辺の観光地は国道134号線(当時は湘南遊歩道路と言われていた)の整備とともに、多くの観光客を集めるようになりました。昭和39年(1964年)のオリンピックヨット競技の開催にあわせて、江の島に自動車専用橋ができて、大船から龍口寺横の停留所(江ノ島口と言われていた)までだった京急バスが江の島島内に入れるようになりました。この頃から有料道路沿いの住宅地開発も進んで、沿道の人口も急増し、バスの利用客も増えました。また夏の江の島海岸は人でごったがえしていました。京浜急行有料道路のバス路線は多くの観光客に利用されていました。
実は私が昭和44年(1969年)片瀬山に入居した時は中学生で、モノレールはもちろん江ノ電バス片瀬山循環線もない中、この有料道路・京急バスで「旧江ノ島海岸ロータリー」(上の写真:今の江ノ島派出所・地下道入口の所)まで行き、そこから辻堂方面へのバスに乗り換えて引越し前から通っていた中学に通学していました。記憶によれば1時間に3~4本のバスがあったと思います。
湘南モノレールが有料道路上空を疾走する
しかし、大船と江ノ島をより短時間で結ぶ交通手段として、有料道路の運命を変える湘南モノレールが建設されます。昭和45年(1970年)3月に大船-西鎌倉間、翌年7月大船ー湘南江の島間全線開通となります。京浜急行はこの有料道路の上空を疾る湘南モノレールに株主として参加していました。バスと競合するモノレールに資本参加し鉄道運行に協力するという決断のいきさつについては、湘南モノレールのホームページ特設サイト「湘南モノレール全線開通までの全記録」の#07、#09、#10 に詳しいので、そちらをご覧ください。
こうして観光客と沿線で急増する通勤客が上空を疾走するモノレールに流れる事になりました。さらに、沿線開発に伴い出入する道が増えて料金所を通らずに有料道路を利用する車が増えてきました。また、「料金所」も夜間は無人になる牧歌的なものでした。私も自家用車で江の島方面に行くようになった頃には、料金所に人がいなくなる時間を見計らって目白山下料金所を通るようにしており、「うっかり」「運悪く」集金にあった時は残念に思ったというイケナイ記憶があります。このような調子ですから、有料道路としての収支は悪化する事になりました。
京浜急行有料道路の終焉
ついに、昭和59年(1984年)京浜急行がこの道路の鎌倉市部分(全体の8割強)を鎌倉市に有償譲渡し、さらに平成元年(1989年)藤沢市部分を藤沢市に無償譲渡した事で、日本初の有料道路はその歴史を閉じました。この道路はもともと専用道路だったので歩道もない上に道幅が狭く、出入りする道路との交差点では右左折レーンを作りにくい等の制約があります。このため、譲渡後も交通渋滞がひどくなり、定時性の優位により、モノレールの通勤客を増やす要因になったとの事です(上記「全記録」#47)。それでも、モノレールの駅間にあるバス停の乗客にとっては京急バスは便利な交通手段であり続けたのですが、少しずつ乗客は減少していったようで、今では1時間に1~3本というダイヤとなっています。
今に残る京浜急行有料道路の名残
今から九十年以上前に生まれ、三十数年前にその幕を閉じた日本最初の有料道路ですが、戦前戦後と約50年にわたり、その所有者であった京浜急行はその痕跡を今に残しています。道路と沿道の住宅との境界に残したKHK(京浜急行の略称)マークの入った杭です。
これは現在でもこの元有料道路のあちこちで見る事ができ、片瀬山の近くだと、片瀬山入口~目白山下駅のあたりで沢山見る事ができます。今回写真でご紹介するものはいずれもこの区間で撮影したものです。
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片瀬山から江の島方面に行く散歩のついでに、足元にあるそうした遺物を確認して、日本初の有料道路の創生期と受け継いだ京浜急行のバスと湘南モノレールの歴史について思いをはせて頂ければ、うれしいです。(Reported By S)