【調べてみた】イトーヨーカドー/東急ハンズ界隈その3

「藤沢戦争」を勝ち抜いたヨーカドー、デニーズ、ハンズ・・ノウハウは日本中へ

イトーヨーカドー閉店の日
2025年1月13日イトーヨーカドー藤沢店は閉店の日を迎えました。
当日の様子は多くのメディアに取り上げられ、多くの方がお店の前に集まり名残を惜しんだそうです。(例えば神奈川新聞の記事
翌朝に行ってみると、イトーヨーカドーの看板を外す工事が始まっていました。さらに工事が終わってから行くと(下の写真)、正面玄関の看板とハトのサインもなくなっていました。ヨーカドーという表示がなくなっていて寂しいものです。

正面玄関横には50年間のご愛顧ありがとうございます という張り紙が残されていました。確かに多くの人の日々の生活の支えになっていました。かつては年中行っていたのに、最近はあまり寄らなくなっていたのですが・・。(だから閉店になってしまったのでしょう)。ヨーカドーの西側に隣接した専用駐車場も閉鎖となり、そのビルにある自転車屋さんも移転して閉鎖となっていました。

2025年1月15日撮影

50年前を振り返ってみましょう。
開店前の状況
前回ご紹介した東急ハンズ開店(1976年昭和51年11月)に先立つこと2年前、1974年6月にイトーヨーカドー藤沢店は今の場所に開店しました。東急ハンズの通りを隔てて向かい側です。
藤沢駅近では大型スーパーとしてはジャンボ藤沢ビル(現オーケー)に西友がすでにその5年ン前に開店していたのですが、この1974年という年は集中して大型店が開店したのでした。駅前に大型店2店、(志澤3月29日、江ノ電百貨店5月25日)、さらに駅の北側にダイエー藤沢店が6月22日に開店し、イトーヨーカドーが同27日(5日後!)に開店したのでした。どちらが先に開店するのか腹の探り合いが続いていたといいます。
あわせて、当時珍しかった業態の”ファミリーレストラン”「デニーズ」が日本第2号店としてヨーカドーの1階に開業しました。前回も記しましたが、この街区は新しい実験が行われる場所だったのです。
開店の日
そしてこれが世に言う「藤沢戦争」の始まりでした。この後続く「津田沼戦争(1976年)」と並ぶスーパー業界での覇権争いとして全国に知られるようになります。

ヨーカドーB1の懐かしコーナーに掲示された開店当時の全体写真

ダイエー開店のその日に、5日後のヨーカドー開店予告チラシが配られたのですが、その内容はダイエー開店価格のものよりすべて安いものだったという挑戦状さながらのチラシでした。ヨーカドー開店後は双方が価格偵察員を送り込み、その場で値下げ合戦をするというようなすさまじい戦いになりました。

イトーヨーカドーの勝利
神戸三宮の闇市から中内功さんが興したダイエーと足立区の洋品店「羊華堂」を継いだ伊藤雅俊さん、戦後の流通業界を築いた伝説の二巨頭の戦いとなりました。
ヨーカドーは、駅近南側のスーパーとして圧倒的な品ぞろえだったこと、駅に行くバス路線の途中だったこと、駐車場が充実していたこと(店の西側に専用駐車場、東側に巨大な提携駐車場)等から、私の家に限らず、片瀬山住民の多くの方が食料品や日用品の大半をここで購入していました。それぞれのご家庭に懐かしい思い出があると思います。
開店当時のスーパー業界はダイエーが売上約4800億円111店舗で首位、イトーヨーカドーは1400億円42店舗で業界6位だったのですが、藤沢戦争はイトーヨーカドーが勝利をおさめ、約10年後ダイエー藤沢店はトポスというダイエー系ディスカウントショップに業態転換を余儀なくされます。その後建替えられて再び食品専業スーパーとなって今は再びダイエー(但しイオン傘下)に戻っています。
チャレンジを生む街区
前回にも記しましたが、この街区は新しい事が起こる地域でした。
当時の航空写真を見ると当時の活気がよみがえります。

1983年の国土地理院航空写真 イトーヨーカドーの西には巨大な提携駐車場があり、これがヨーカドー勝利の一因になったと言われている 北の東電前交差点横にはスカイラーク(第30号店)があり、深夜営業をしていたので、大学生になった頃の私も入り浸っていた。ヨーカドーの北にはホテルエスタが開業しましたが、後に法華クラブのホテルになり今に至ります。

この戦いでどうしてヨーカドーが勝てたのか?というのは諸説ありますが、当時の様々な経済系雑誌の見方によれば、ダイエーが価格勝負を続けたのに対して、イトーヨーカドーが藤沢の地域特性に合わせて、
1少し価格帯の高い商品での品ぞろえや売り場づくりを工夫したこと
2当時急増したマイカー向けに駐車場を確保したこと(ダイエー200台/ヨーカドー600台)
3店員教育が行き届き、接客の評判がよかったこと
 等の総合力で価格競争から脱して黒字化できた ということらしいです。イトーヨーカドーは藤沢の戦いを経て、ダイエーに勝つやり方を確立したと言えましょう。これは、その後の両社の行く末を示すものでした。ダイエーは2000年代初頭には経営危機に陥り最終的にイオン傘下になりました。イトーヨーカドーは丁寧な売り場づくりを続け、スーパーの王道を歩んできました。しかし総合スーパーという事業形態が時代に合わなくなり、最近は構造改革に追われるようになったのは皆様ご存じの通りです。地下の食品売り場は充実していて人も入っているのに、閑散とした上階とのギャップは明らかでした。でも開店当時はこの街区全体が持つ新しいチャレンジ精神を感じるお店だったことは確かでした。

イトーヨーカドー内に開店したデニーズ
私にとってファミリーレストランという所(デニーズ)に初めて足を踏み入れたのはここでした。このデニーズはその2か月前にイトーヨーカドー上大岡店に開業した日本1号店に続くものでした。「デニーズにようこそ!」という声かけは当時流行りました。この後瞬く間に日本中でこの挨拶が聞かれるようになりました。イトーヨーカドーは当時ファミール(和食も食べられる)とデニーズ(アメリカのデニーズと提携)の二つのファミリーレストランチェーンを持っていました。後に二つのチェーンの競合がめだつようになり、最終的にデニーズに統合される事になりました。実は今のデニーズ片瀬山店の場所にファミールがあったのですが、ヨーカドー内のデニーズが撤退し、南にあったファミールがデニーズに転換した結果、今のデニーズ片瀬山店になるという経緯を経ています。

ヨーカドーB1の懐かしコーナーに掲示されたデニーズの開店当時の写真 国道に面して大きな窓が見える
イトーヨーカドーの今の写真 国道側にあるかつてのデニーズの窓だった名残の部分 デニーズ撤退後、封鎖されたけど窓だったことはわかります

東急駐車場
もうひとつこの街区で新しい試みがありました。イトーヨーカドーの向かい側、東急ハンズの南どなりにあった巨大な駐車場についてです。これは東急プラザ南館という建物で、これも東急不動産が運営していました。1981年(昭和56年)10月にオープンしました。東急ハンズが建替えられてリニューアルオープンする半年前です。この駐車場は航空写真で見るとわかるように、中央にらせん状道路があり、これは登り専用と下り専用になっていて、車で来るととても面白かったのです(目がまわりそうでしたが)。そして、複数の商業施設の提携先(ヨーカドー、ハンズ、大正堂、藤沢西武、江ノ電デパート・・)の様々な提携基準にあわせた駐車サービス(料金)で使えるいう当時としては画期的な仕組みを採用していました。この頃自家用車保有が一般的になり、駐車場が苦手な女性ドライバーが増えた当時の藤沢市南部の状況にいち早く対応したものでした。これがイトーヨーカドーの勝利の一因として挙げられているわけです。東急プラザ(東急ハンズの後はユニクロが入っていた)の閉鎖とともに、取り壊され、いずれも巨大なマンションがその跡地に建っています。
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多くの人たちの思い出の中に

ヨーカドーB1の思い出コーナーに張り出された沢山のメッセージ(2025年1月)

この連載で取り上げたように、藤沢の駅近の街区に東急不動産が計画した街づくりの夢から始まった試みはドエル(マンション)、ハンズ、ヨーカドー、デニーズ、東急プラザ駐車場として1980年代初頭に完成を見ます。今ではドエル以外はなくなってしまいましたが、日本中の多くのお店(ハンズやヨーカドー、デニーズに限らず)、ホームセンター、食品スーパー、ファミリーレストラン・・には藤沢で試された運営方法が源流となっていると思います。(本連載1
ヨーカドーに貼りだされた別れを告げるメッセージカードには、子育ての頃、子どもの頃にこの街によく来たという無数の思い出とともに、一つの時代に別れを告げる言葉が並んでいました。
(Reported By S)

【今回の記事の参考資料】写真は特に出典が記されてないものは筆者による撮影
・すべての面で「他社より少しずつよい」組織の凄み イトーヨーカドー強さの秘密
   近藤耕作 マネジメント(雑誌)日本能率協会 1977年5月号
・中内功の限りなき挑戦 大下英二 講談社1984
・小売りの革命児たち:スーパー・百貨店・専門店 吉田貞雄 中経出版1981
・新規上場会社紹介「株式会社デニーズジャパン」 証券(雑誌)
  東京証券取引所総務部 1982年12月
・安全でスムーズな出庫 藤沢駐車場の場合
 ショッピングセンター(雑誌)日本ショッピングセンター協会 1983年2月号 
いずれも国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
地図や航空写真は国土地理院ホームページで閲覧が可能です。