片瀬山に住む様々な経験や才能をお持ちの皆様にインタビューするシリーズ、最初に登場するのは、この環境委員会を立上げたご本人、鶴岡さんに今から60年以上前のお話を伺います。
おりしも8月は甲子園の月、今年は様変わりしていますが、そこも含めてお聞きしました
5丁目 鶴岡さん–1 ~元慶應義塾高校野球部~
—-鶴岡さんは甲子園に出場なさったそうですね。
鶴岡さん はい。選手として、監督として、甲子園に出場しました。
—-2度もですか。どこの高校の選手だったのですか?
鶴岡さん 慶應義塾高校(以下、塾高)の選手として、昭和31年(1956年)夏の選手権大会に出場しました。
—-ポジションはどこだったのですか?
鶴岡さん 投手です。サイドスローのピッチャーでした。
—-甲子園のあの大歓声のマウンドで白球を投げるというのは素晴らしいですね。どんな気持ちでしたか?
鶴岡さん 甲子園でも地方大会でも、マウンドに上がるときは、いつも緊張しました。食事も喉を通らないくらい。緊張をほぐすために、ピッチング練習の初球はキャッチャーの後ろのバックネットに向けて思い切り投げたものです(笑)。私は、打たせてとるタイプで、7割がシュートボール。バッターを料理するという感覚で投げてましたね。
—-マウンドではプレッシャーがかかるのですね。野球はピッチャーがボールを投げることからスタートしますから。
鶴岡さん その通りですね。そして、自分の指からボールが離れたら、その先は相手のバッター次第です。大事な場面で打たれたら悔しいですし、反省もしますが、すぐ次のバッターと向き合わねばなりません。終わったことにあまり拘泥しないということを野球から学びました。また、ピッチャーっていうのは、不思議なもので、調子がよい時はキャッチャーまでの距離が近くみえる。一方、調子が良くない時は遠くみえる。自分で調子が分かるんです。
—-塾高野球部ではどんな練習をしたのですか?
鶴岡さん 来る日も来る日も、真黒になるまでボールを追いかけました。また、高校通学途中の電車では、右手の2本の指で吊革を握り、足の踵の上げ下げ等、やっていました。162センチの小柄でしたが、甲子園で投げられたのは、下半身が強靭であったからです。
—-2020年春の選抜大会、夏の選手権大会が中止になりましたが、高校球児へのメッセージをお願いします。
鶴岡さん 「甲子園」、この言葉は高校球児にとっては「夢」また「夢」であり、この「夢」があるから厳しい練習を乗り越えてきたのでしょう。また、コロナ問題で合同練習ができない、グランドが使えない、いろいろな問題があり、辛い日々でしょう。しかし、野球というのは団体スポーツですが、一人ひとりのレベルが上がることでチームのレベルが上がり、強くなっていきます。今こそ自分の弱いと思う所を「鍛える時間が出来た」と捉えてください。特に基本は下半身が強靭であることです。投、走、攻、守、全てに共通しています。一人でもできることは沢山あります。
—-ありがとうございました。
因みにこの38回大会は早稲田実業の王さんが1年生で出場していました。王さんは翌年の選抜大会で全国優勝をしています。
次回は、甲子園に監督として出場した時のお話を聞かせていただきます。