20年8月【この人に聞く】片瀬山に甲子園監督!

5丁目 鶴岡さん–2~甲子園で2勝した名将が勝たせ(片瀬)山に住む~

前回に引き続き5丁目の鶴岡さんへのインタビューです。選手としてそしてその後監督として甲子園の土を踏んだ経験から、スポーツ経験の大切さを語ってくれました。

今はおだやかな表情の鶴岡元監督

—-監督としては、どこの高校を率いて甲子園に出場したのですか?
鶴岡さん 母校の塾高の監督として、昭和35年(1960年)春の選抜大会に出場しました。当時、私は慶應義塾大学の3年生だったので、学生監督でしたね。神奈川県の秋の大会で優勝、関東大会でも優勝して、関東代表としての出場でした。

—成績はどうでしたか?
鶴岡さん 甲子園では打線が好調で1回戦の鹿児島商戦は大会タイ記録21安打で15対2の快勝、2回戦の東邦高戦も5対3と勝ち、ベスト8に進出しました。強豪といわれた鹿児島商、東邦高を撃破して波に乗り、負けるはずがないと思った3回戦の秋田商戦は1対2で残念ながら敗退しました。ただ、このチームの秋から春にかけての打力の向上には目を見張る思いをしました。
—-甲子園の3試合で得点21、失点7、投手力もあったのですね。
鶴岡さん 当時、剛腕といわれた渡辺泰輔投手がいて、安定感抜群でした。地方大会などは、打線が1点とれば、勝てると監督の私が思ったほどでした。関東大会では3試合53奪三振、後に東京六大学では初の完全試合達成、南海ホークスに入団して、巨人との日本シリーズで活躍するほどの逸材でした。春の選抜後の夏の選手権神奈川大会の決勝ではあの柴田勲選手(後の巨人V9時代メンバー)のいた法政二高に延長11回2対6で敗れました。法制二高はその後、甲子園で全国制覇、塾高野球部も強いチームだったと実感できた瞬間でした。
—-監督として、どんな思い出がありますか?

先日TVでも紹介されました

鶴岡さん 夏の法政二高戦です。中盤まで塾高がリード、甲子園出場が目前と感じた後、相手のベテラン監督の作戦に動揺して、学生監督である私の作戦が終盤裏目に出たことです。 60年以上も昔のことですが、甲子園出場を逃した事、あの時の私が出したサインを今でも悔しく思い出します。その後、2005年には、私が監督として出場して以来45年ぶりに塾高は選抜大会に出場しました。エンジョイ・ベースボール(Enjoy Baseball)を掲げた上田監督の戦いぶりも素晴らしいものでした。

—-高校野球の素晴らしさを教えてください。
鶴岡さん 野球は団体スポーツです。社会人になって分かりましたが、会社は正に団体スポーツの野球と同じです。社員一人ひとりのレベルが上がれば、会社は良くなります。また、会社の仕事と野球、似ているところが沢山あります。犠打(自分を犠牲にして進塁させる)、バックアップ(失敗を最小限にとどめる)、コンバート(適材適所の配置)、再発防止(同じ失敗をしない)、最後にチームワークです。これらの言葉は、野球では随所に出てきます。
高校野球も100年を超す歴史があります。たとえ、甲子園での大会が中止になっても、野球で鍛えた体、正しい野球を覚えて卒業すれば、必ず高校球児のみなさんの宝となるでしょう。「練習は不可能を可能にする」の言葉を添えて。
(Interviewed By Y)