【はじまりを探して】江ノ島~大船有料道路 その1

江の島に抜ける道は日本最初の有料道路だった

上の写真は片瀬山入口バス停付近で、湘南モノレール線の軌道と大船発江ノ島行きの京浜急行バスを撮影した写真です。片瀬山住民にとっては見慣れた風景ですが、実はここ、日本の道路交通史に残る長い歴史を秘めているのです。このバスの通る江ノ島と大船を結ぶ道路は昭和5年(1930年:今から92年前!)日本で最初に開通した有料道路なのです。そして、その3年後昭和8年8月には15分間隔で江ノ島-大船間にバスが運行されていました。今よりはるかに多くのバスが通っていたわけです(もっとも、今は上空をモノレールが1時間に8本通っていますが)。江の島に抜けるこの道は狭いカーブでのスリルがあり、龍口寺まで信号がない事もあって、ドライブで利用した片瀬山の若者も多いと思います。
今回は日本最初の有料道路がどうしてここにできたのか?そしてそれがどのようないきさつを経て今に至っているのか?を3回に分けて連載します。
江の島~大船間を結ぶ道路の概要
まず、現在のこの道の概要をおさらいします。次の写真の下の方、JR大船駅を出発して深沢を経て鎌倉山を登ります。モノレールは鎌倉山で道と分かれ、トンネルに入ります。道路の方は鎌倉山ロータリーを経て降りてきてモノレールと再び合流し、西鎌倉、片瀬山の住宅地の横の尾根筋を通ります。モノレールはトンネルで目白山を通過しますが、道路は龍口寺裏の山(片瀬山公園)のすそを下って湘南モノレール江ノ島駅の横まで到達します。モノレールの距離にして6.6kmの道です。

この道は大船駅を出てすぐ、横須賀線をまたぎます。全行程で最初に建設されたのがこの「線路をまたぐ橋」である「旧小袋谷跨線橋」でした。その後沢山の車が通る市道腰越大船線の一部となったのですが、すれ違いもままならぬ狭くて危険な築90年近い老朽跨線橋をバス、車、バイク、歩行者が無理に通る様子が、TV番組でも紹介されました。ようやく2017年に新しい跨線橋ができて取り壊され、今に至っています。かの古い「危険な橋」も実は由緒ある道だったのです。
建設中の新跨線橋の横にある狭い旧跨線橋をバスが行き来する昔の様子はこちらの動画をご覧ください。

新装なって安全になった小袋谷跨線橋 起点の大船近く 新小袋谷跨線橋 湘南モノレール車内からの撮影
かつての有料道路終点に入ろうとする京急バス(現龍口寺バス停)

様々な資料を調べましたが、第1回、第2回は主に「昭和初期の別荘地開発と住宅地形成に関する研究~鎌倉山住宅地開発にみる住文化の継承と変容~」(住総研 研究論文集No39.2011年版)→原文はこちら という論文の記述に基づいて、今の写真やその他の資料も加えてご説明したいと思います。(断りなければこの論文を参照した内容です。他の資料からの情報はその都度記します) 

◆そもそもどうしてこの道路が計画されたのか?
江の島は江戸時代には参詣地・観光地として知られるようになりましたが、さらに明治35年には江ノ電が開通して、江の島~鎌倉周辺一帯として多くの人(年間150万人超)を集めるようになりました。

昭和一桁年代の頃の江の島から見た桟橋と片瀬の街 龍口寺の五重塔の左上に龍口園の展望台、さらにその左に龍口園にのぼるためのエレベータが映っている 藤沢市文書間所蔵の絵葉書
龍口園から富士山を見る 建物は龍口園にのぼるためのエレベータ 龍口園の施設についてはこちらが詳しい 藤沢市文書間所蔵の絵葉書

この流れで大船から江ノ島を最短時間で結ぶ鉄道路線(江ノ電が敷設申請)が企画され、その後自動車専用道路とそこを走るバス路線が企画されました。昭和3年(1928年)「江ノ島大船専用自動車株式会社」という会社が設立され運動は本格化しました。この会社の代表者であった菅原通済(すがわらつうさい)という人が戦後に当時の志について記した文が、鎌倉山ロータリーの碑に記されています。

深沢一帯は鎌倉幕府と新田義貞軍の攻防があった「須崎の合戦」の古戦場です。

「大正十四年、余二十九歳の頃、大船と江の島間を結ぶ世界最初の賃取り自動車専用道路を思い立った。・・・鎌倉山に日本で始めての丘陵式住宅地をドイツ人マイスナー君の示唆によって計画した。鎌倉山住宅地株式会社は昭和三年七月二十五日分譲を開始、日本自動車道路は八月二十四日に開通した。・・地名によって明らかなるごとく、血なまぐさき古戦場であったが、鎌倉がいばらの地となってより六百年後、車と涼風を満喫したる若き男女の笑話を聞く夢の世界ではある。・・・今回故あって堤義明氏の行為に甘え・・石に刻み千年も万年も子々孫々に伝え得ることは、こよなき喜びである。・・

鎌倉山ロータリーにある塔は関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居を活用したもの 手前が先ほどの石碑

この「賃取り道路」を提唱した菅原通済という方ですが、菅原道真の36代目の子孫を自称したという時点で少し怪しい雰囲気がわかります。碑文では昭和3年に道路開通と読めますが、実際には昭和5年の8月に道路全線が開通し、バスの運行もその時からでした。この自動車道路会社の目的はまず第一に観光客が急増していた江の島や遊園地等(龍口園:今の片瀬山公園の所に昭和2年に開園した当時東洋一と言われた遊園地、それに加えて鎌倉山に作る予定の各種施設類)に観光客を運ぶことにありました。

もう一つの目的は碑文にもあるように、鎌倉山の住宅・別荘地の土地開発とその住民への交通手段提供を目的としていました。細かいいきさつは「論文」に譲りますが、とにかくその志を実現する事ができたわけです。

昭和10年頃の自動車専用道路と運行するバス 鎌倉山を紹介する絵葉書より 鎌倉市中央図書館所蔵

その後、自動車部門である日本自動車道株式会社は戦前の昭和13年(1938年)に京急に道路用地とともに買収され、鎌倉山住宅地株式会社は戦後昭和23年に国土計画興行(碑文にもあるご存じ西武の堤一族の会社です)に合併されました。
この菅原通済という方は戦前に日本で最初に高速道路を提唱したり、江ノ電の経営にかかわり、戦後も政財界のフィクサーの一人として活躍し、昭電疑獄に関与したり、三悪追放キャンペーンを唱えたりと、怪人として知られた方です。戦後四半世紀も過ぎた頃、こうしたフィクサーと言われる方たちが道徳を唱える広告を見て、当時高校生だった私も不思議に思った記憶があります。
次回はこうしてできた有料道路と鎌倉山住宅地が戦中戦後の大波をどのように乗り越え、今の姿として残るようになったのかをご紹介します。
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謝辞:本稿での参照論文を執筆された皆様、鎌倉市中央図書館近代史資料室、藤沢市文書館、湘南モノレール広報室の皆様に感謝申し上げます。
地名等の表記:地名については江の島、バス路線・道路名では江ノ島、湘南モノレール駅は湘南江の島駅と記します。