理想の街づくりを目指した鎌倉山と有料道路の戦中戦後
鎌倉山:当時としては先進的なインフラを整備し高級で文化的なイメージを確立
前回述べたように、有料道路は江の島周辺の観光客輸送と沿道の鎌倉山住宅地の開発のために作られました。鎌倉山住宅地は昭和5年から7年にかけて(1930-32年)水道・電気・電話、同11年(1936年)に都市ガスの整備が行われ、戦後昭和23年に移管されるまで、すべて自治運営でした。そうしたライフラインの整備だけでなく、娯楽・生活サービスの施設整備も行われ、テニスコート、購買組合(売店)、ゴルフ練習場、簡易宿泊所等を設置し日常生活には不便のない住宅地を目指していました。
鎌倉山ロッジと言われる建物(昭和43年まで存在)では帝国ホテルの料理が出されるレストラン、ダンスホールがあり、友美会という住民の交流組織の活動拠点となっていました。菅原通済さんの人脈で有名人が多数移住したこともあり、これらを通じて鎌倉山の高級で文化的なイメージが定着していきます。菅原通済さんはただものではありませんでした。
運営には様々な困難が・・
しかし、運営の舞台裏では色々な困難が立ちはだかります。まず、密接な関係のあった龍口園が経営不振で昭和10年頃には閉園してしまいます。(→詳しくはこちら 龍口園全体については湘南モノレールソラdeブラーンのこちらに詳しいです。深い研究はこちら)。それでもバス事業はそれなりの売上を得てました。当時の案内パンフレット等からは電車の到着時刻に合わせての出発等、観光客の需要に応える努力がうかがえます。
住宅地開発の方は経営が苦しかったようです。高級で社交的なイメージを打ち出す一方で、大船駅を経由して通勤可能であるというアピール、また「理想的・健康住宅地」として「閑静・眺望・様々なアクティビティ」等も強調して、様々な広さの土地や建売の分譲もして苦境の打開をしようとしていました。
戦時色の強まりと有料道路の苦難 防衛拠点を結ぶ道路に
しかし、昭和13年(1938年)にはついに有料道路・バス事業の日本自動車道株式会社を京浜電鉄(のちの京浜急行)に売却する事になります。これにより、戦後も「京浜急行自動車専用道路」と言われて続く事になり、今でもバス路線は京急による運行となっています。
いよいよ戦争がはじまり、簡易舗装だった有料自動車道路で戦車のテスト走行が行われるようになります。路面はすっかり荒れてしまい、戦後にこの路面の補修を廻って京急と鎌倉市の間で何度も交渉が行われるになります。また、鎌倉山・津西(今の西鎌倉付近)・片瀬山付近は米軍の相模湾上陸作戦(コロネット作戦)に備えて防衛陣地としての壕が、丘陵地帯の斜面に多数掘られ、これがまさしくこの有料道路沿いでした。当時の様子を知る人の証言に「今の西鎌倉駐在所から100メートルくらい行った片瀬寄りのところには、陸軍の大きな大砲15~16門が京浜急行の道路に並んでいました。」「西鎌倉等は最強最大といわれた地下要塞陣地の上に住宅が建っているのです」という声が記されています。また鎌倉山にも多くの壕が掘られ、その様子も多くの証言があります(→鎌倉・太平洋戦争の痕跡 13~14P、52~62P 鎌倉市立図書館近代史資料収集室編)。
戦後の混乱期をこえて
終戦を迎えて、鎌倉山では有名人の構えた大きな別荘住宅のいくつかは接収され、進駐軍の高級宿舎や娯楽施設となったりしました。一方、東京からこの別荘地に移って定住した人達もいて、畑を作って自給自足をし、腰越の配給所に歩いていったりする中で、連帯感を持って戦後を乗り切る人達も多くいたのでした。一方で鎌倉山住宅地株式会社は昭和23年(1948年)堤康次郎率いる国土計画興行と合併して姿を消します。そして昭和25年(1950年)京浜急行は路線バスの運行と有料道路としての運用を再開します。ようやく京浜急行自動車専用道路は戦後の江の島観光に再参入する事ができるようになりました。国土計画を親会社とする西武鉄道が近隣の西鎌倉・七里ガ浜等鎌倉の住宅地開発を開始するのはこの14年後です。
次回は京浜急行有料道路の終焉と湘南モノレールの関係についてご紹介します。