海外からの顧客を多く迎え高級ホテルとしてのステータスを得た
海外顧客の受け入れを目指した
1955年(昭和30年)に開業した「江之島ホテル」ですが、ゴルフ場だけのお客様にとどまらず、古都鎌倉、マイアミ市と提携したレジャー施設のある江の島に近い立地を生かして、海外からの顧客も受け入れてステータスを高めようと努力しました。海外に負けないホテルを増やそうとレベル向上に努力していた日本ホテル協会にも加入し、その後主要メンバーの一つになります。
国際観光ホテルの指定を目指す
国際基準のホテルになるために、まずは「国際観光ホテル」の指定を受けることとしました。この指定を得るというのは、海外のお客さんが安心して泊まれるホテルだと国がお墨付きを出すということです。(⇒この要件については文末参照)
1956年(昭和31年)5月21日に登録に成功したのでしたが、それを前にそれまで「江之島ホテル」だった名前を「江之島観光ホテル」に改名しました。(改名は2月17日)
積極的に会議や外国人団体の誘致に励む
そして、各種業界団体の会合、海外使節団の訪日の際の宿泊場所や会食場所等様々な機会をとらえて、当時はまだ少なかった国際観光ホテルとしての名声を高めようとしました。
当時の色々な業界誌等に数多く「江の島ホテル」「江ノ島ホテル」「江之島ホテル」・・等の名前で登場します。(なかなか江之島観光ホテルという名前が浸透しない)
さらにちょっと面白い所では、将棋や囲碁のタイトル戦がよく開催されました。将棋では「九段戦」(現在の竜王戦の前身 読売新聞社主催)も開催されました。鶴巻温泉「陣屋」等の由緒ある旅館やホテルと並んで新聞に載るようになりました。またNHKラジオの収録等も行われた記録があります。
素晴らしい立地と設備の拡充を経て藤沢市の顔となるホテルの地位を獲得
1959年(昭和34年)さらに設備の整備を行います。一部を増築して階上展望食堂を作り、さらに各客室と併せて完全冷房となりました。
そして、1960年(昭和35年)10月1日ここで藤沢市市制20周年記念レセプションが開かれたのはこうした地道な努力の結果として得られたステータスと言って良いでしょう。開業後5年の事でした。
この後1962年(昭和37年)フロリダ州知事が訪日した際に藤沢市長が会談したのもここでしたが、それは前回触れた通りです。
1964年の東京オリンピックを前に外国人観光客受入の主要ホテルとして挙げられるようになる
東京オリンピックのヨット競技が江の島で行われることになり、いよいよ外国人の受け入れ可能なホテルの充実が求められるようになりました。そんな中、日本不動産銀行(その後日本債券信用銀行)の調査部のレポートには、当時神奈川県内(横浜・湘南・富士・箱根地域)での外国人受入の主要ホテルのリストが載っています。その中で江の島鎌倉地域では唯一この「江之島観光ホテル」があげられ、ホテルニューグランド(横浜)、富士屋ホテル(箱根)等と並んで主要ホテルとして評価されるようになっていました。
このような経緯を経てわずか開業後7年あまりで神奈川県内のホテルとしては高いステータスを得るに至りました。
しかし、それも長くは続きませんでした。次回はその後の急展開から終焉までをお伝えします。
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「国際観光ホテル」指定のための要件:
「国際観光ホテル整備法」1949年(昭和24年)制定
今では当たり前の内容ですが、当時のいわゆる「旅館」ではなく近代的なホテルとしての「設備」や「顧客サービス」を持つ事を要件としました。
設備面:フロントやロビー、食堂、客室にはトイレ等が各部屋にある事、洋室15以上、建築構造、非常口と避難ルート明示等・・・
顧客サービス面:外客接遇責任者の選任 つまり英語ができる顧客対応経験者が責任者として専任されている事等
そして、この要件を満たしたホテルは税の減免がある等の優遇措置もありました。そして今でもこの法律は生きています。
戦後10年たっと、米軍に接収されていた全国の多くのホテルが解除となり、次々と再開されていました。赤坂プリンスホテルが李王家邸を改装して開業(この建物は赤坂プリンスクラシックハウスとして現存)したのも江之島ホテルが開業したまさにこの年1955年(昭和30年)でした。