鎌倉時代の歴史の舞台、そして龍口寺輪番八ヶ寺となるまで
先日の「片瀬小学校100周年イベントかたせのうた」の記事の取材を通じてお近づきになった実行委員会代表の服部さんは常立寺のご住職です。改めて常立寺の取材をお願いした所、快く受けて頂き、お寺にまつわる色々なお話を伺うことができました。今回はご住職から教えて頂いたことに、いくつか私のほうで調べたことも加えてお伝えしようと思います。
今までもしだれ梅や蝋梅の咲く美しいお寺としてお伝えしましたが、今回は鎌倉時代から続く古刹の歴史をお伝えします。伺った日、境内は秋の気配の銀杏の香りが漂っていました。
服部さんは弁護士の仕事をされながら僧侶の資格をお取りになり、伯父様を継いで常立寺の住職になられたという方で、とても気さくな方です。
◎なぜ「龍の口」?
「龍の口、龍口寺、常立寺・・とこの辺りの古い話はこの本に出ていますよ」といって貸して頂いたのが、「鎌倉の刑場 龍ノ口」という本です。古い文献を丹念にたどって、この地域の歴史を詳しく記した本です。しばらく、その本の記述に基づいての説明になります。
龍ノ口の地名の由来は、地形とそれにまつわる伝説が一つの要因と考えられるそうです。すなわち「昔、深沢に悪い龍が住んでいて、人を襲ったりしていたのが、欽明天皇13年(552年)江の島に弁財天が舞い降りてそれに感化された龍が龍口山に化身した。」(江島縁起・日蓮聖人註画畫讃)
このような伝説があり、境川と神戸川に挟まれた山地の先端部分を龍の頭に見立てて、そこが龍口山と言われるようになった、と考えられるそうです。
また一説に、鎌倉から西方に「発つの口」であった片瀬を縁起の良い「龍ノ口」にしたとも考えられるそうです。
いずれにしても、片瀬周辺の土地の形や位置が名前の由来である事らしいのです。
◎刑場龍ノ口と常立寺創建の頃
龍ノ口は鎌倉の刑場として約二世紀ほどの間、斬首・梟首(さらし首)の場所として知られていました。古くは大庭景親(1180年)、その後日蓮(助命)1271年、元使 杜世忠ら五名(1275年)等、歴史の教科書に出てきます。この本では実際の処刑場は今の東浜海水浴場前の浜あたりから龍口寺前あたりにかけてではないかと推定しています。有名無名の多くの遺体を葬って回向供養(えこうくよう)したのが常立寺のあたりと言われています。鎌倉時代の創建当時(年代は不明)このお寺は真言宗の寺として創建され、当時は回向山利生寺と言われていたそうです。それは龍口寺が創建されるよりずっと前のことで、約300年ほどたって、寺が荒廃してきた室町時代の天文元年1532年、日豪上人という方が日蓮宗のお寺として龍口山常立寺と改めたのだそうです。
◎龍口寺と輪番八ヶ寺の成り立ち
日蓮が龍ノ口で斬首されようとした法難(1271年鎌倉時代)の後、その弟子日法がその場所(霊蹟)にお堂を立てたのが龍口寺の始まりとされています(1337年南北朝が始まった頃)。当時このあたりは手広の青蓮寺を中心とした真言宗が勢力を持っており、片瀬の泉蔵寺、密蔵寺、腰越の満福寺、浄泉寺、津村の宝善院、川名の神光寺が青蓮院に連なるお寺でした。また藤沢道場の時宗勢力も盛んでした。それに対抗する意味もあったのでしょう、腰越・津村を中心に日蓮の弟子たちが聖蹟の護持と布教のために次々とお寺を創建します。それが腰越の本成寺、勧行寺、法源寺(いわゆるぼた餅寺 後に龍口寺そばに移転)、津村の東漸寺(東禅寺)、本龍寺、妙典寺です(1302年~1325年)。片瀬では真言宗だった二寺が改宗して日蓮宗のお寺に(本蓮寺1304年・利生寺→常立寺1532年頃)なります。こうして寂光院龍口寺(1400年前後に確立?)を中心に周辺の八ヶ寺がそれを守り盛り立てる龍の口日蓮宗の形が出来上がります。これら八ヶ寺は龍口山を山号とし、以降龍口寺は住職を置かず、この八ヶ寺が輪番で法事を行う形で発展し、それが明治19年まで続きます。室町、戦国、江戸、明治と気が遠くなる時間です。
◎江戸時代 龍口寺の発展とともに
その後江戸時代に龍口寺は伽藍の整備が進み江の島と共に観光地としても有名になりました。
江戸時代後期の片瀬の地図には、江の島道沿いに龍口寺に並んで常立寺、本蓮寺が記されています。片瀬腰越津村は多くの家がこれら八ヶ寺の檀家になっていました。
次回は常立寺で見る事ができる歴史的なものについてです。
参考文献:鎌倉の刑場 龍ノ口 清田義英 敬文社1978年(昭和53年)