明治~大正~昭和 学習院とのつながり そして地域にねざすお寺として
前回までは歴史の教科書の中の常立寺をお伝えしましたが、ここで話は一気に変わります。「小説の神様」と言われた作家志賀直哉の作品に「母の死と新しい母」という短編小説があります。明治45年(1912年)に雑誌 朱欒(ザムボア)に発表されたものです*1。この小説の冒頭「十三の夏、學習院の初等科を卒業して、片瀬の水泳に行って居た。常立寺の本堂が幼年部の宿舎になって居た。・・」とあります。この小説は志賀直哉が実際に体験した話が元になっています。実は当時学習院に学んだ多くの人の回想に常立寺が登場します。
学習院の遊泳訓練は常立寺を宿舎としていた
学習院では遊泳訓練が明治13年(1880年)隅田川で始まり、その後明治24年(1891年)から片瀬遊泳場で行われるようになり、その2年後明治26年(1893年)から校友会雑誌にその報告書が載り、海水浴の効能が広く伝えられ、あわせて片瀬東浜が海水浴場として知られるようになりました。
この当時は龍口寺、常立寺、本蓮寺が宿舎として使われ、龍口寺には145畳に青年部学生76名、常立寺の80畳に幼年部学生50名、本蓮寺の50畳に幼年部学生32名が宿泊した と報告書にあります。志賀直哉はこの時の体験を記したのでした。*2
その後も毎年学習院の水泳訓練が行われ、常立寺での宿泊が続きましたが、明治38年(1905年)には学習院の寄宿舎(平屋建て9棟)が常立寺の前に竣工しました。*3
その2年後明治40年(1907年)日露戦争で有名な乃木希典が学習院院長となり、一層片瀬での遊泳≒海水浴が有名になり庶民に広まる契機になりました。また乃木はこの片瀬での訓練で青少年教育としてのキャンプを行い、日本のキャンプの父ともいわれています。片瀬は日本のアウトドアキャンプの発祥の地でもあるのです。*4 *5
その後学習院の夏季水泳は明治44年に沼津に移りました。片瀬の海水浴場が一般客で混雑するようになり、游泳訓練場に適さなくなったのが理由とされています*6。
その後時代が下って大正から昭和にかけては常立寺は前回述べたような経緯で元使塚で知られるようになります。
650周年(大正14年1925年)、660周年(昭和10年1935年)の法要を行った住職の磯野日精師はその後独自に常立寺敷地内に立正閣という宗教施設を開館し(昭和13年1938年)さらにその名前を元使記念館と変え、戦後を迎えます。元使記念館は大きな建物で、戦後も団体客の夏の宿泊所等に活用されたりしました。一時病院や幼稚園への活用も検討されましたが、残念ながら昭和40年代?頃に取り壊されたようで、今はお寺の駐車場になっています。
地元の人が自由に出入りする場所だった
住職の服部さんから「このお寺は地域の人たち子供たちが気兼ねなく立ち寄って集まり、遊び場にもなる開かれた場所だったと聞いています」と伺いました。実際片瀬の多くの家が檀家さんだったのでしょう。山沿いのお寺や神社(南から常立寺、本蓮寺、密蔵寺、諏訪神社)と江島道沿いの民家の連なりとがお互いに向き合っており、今でも強いつながりを感じることができます。
ご住職によれば当時の子供たちは法事があるたびにお菓子をもらいに来ていたそうですし、子供会がたびたび開かれていて、当時のお話を今はご老人となった方からよく聞くそうです。また大きくなった檀家の子女をしばらく預かって学校に行かせたりと色々な役割をしていたとの事です。
パブリックな寺として片瀬の中で開かれていたことがよくわかるお話だと思います。
今のご住職も先代・先々代と受け継いでこられた姿勢で「かたせのうた」の呼びかけ人になられたり、東り町アートフェスのイベントに参加したりと、片瀬を盛り上げ、片瀬の町に開かれたお寺として今後も歩んでいかれるのだと思いました。
服部ご住職ご協力ありがとうございました。(Reported By S)
参考文献
*1朱欒(ザムボア) 第1次 東雲堂書店 1912年 2号 その後志賀直哉全集他多く転載有り
*2学習院輔仁会雑誌1889年10月号、1894年12月号、1895年11月号等転地遊泳報告書
*3江の島海水浴場開設100周年記念誌 藤沢市観光協会/江の島海水浴場開設100周年記念行事実行委員会 1986年3月
*4学習院大学資料館 ミュージアム・レター38号 2018年
*5日本における組織キャンプのひとつの萌芽ー学習院の遊泳演習についてー吉田太郎他 キャンプ研究 2020年1月号 日本キャンプ協会
*6学習院百年史第1編 学習院百年史編纂委員会編 学習院1981年
*4,5はインターネットで読むことができます。他は国会図書館デジタルコレクション(登録する事で閲覧可)より