鎌倉時代~江戸時代 境川の流路が変わっても橋は大事な目印
前回に続いて馬喰橋についてです。片瀬の歴史について歴史散歩のお供にちょうど手頃なのが片瀬市民センター/片瀬・江の島まちづくり協議会発行の「片瀬歴史マップ」です。(一般配布中さらに PDF版地図面 PDF版記事面(下写真参照)がデータダウンロードできます)
この中に馬喰橋が取り上げられていて、そこには、「源頼朝がこの川に馬の鞍を架け、橋の代わりにしたという伝承から馬鞍橋と呼ばれています。また昔、馬がこの橋にさしかかると突然死んでしまうことから馬殺橋とも呼ばれていましたが、ある時、行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなったと伝えられています。」とあります。
この話について、前回同様市役所の郷土歴史課の学芸員の方にお聞きしました。
Q:本当に頼朝がこの道を行き来したのでしょうか?西の方に行く時に鎌倉からここを通っていったという事はあるのでしょうか?
A:あくまでも伝承ですので、行き来したか、しなかったかはわかりません。また、頼朝のいた時代にはまだ江の島は庶民による弁財天信仰が盛んとなっていたわけではなく、後の江戸時代のように庶民が観光で行き来するような道ではありませんでした。
Q:その当時のこのあたりの様子はどのようなものだったのでしょうか?
A:当時の地形の様子はこんな感じだったと思われます。(と前回同様の地図(鎌倉時代版)を見せてくれました)
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ここからは私(レポーター)の読図です。海はだいぶ今の様子に近づいていますが、境川(片瀬川)は今の藤ヶ谷あたりにできた砂丘の向こう側を流れていてずっと遠かったことがわかります。また引地川は片瀬で境川に合流していたらしいことがわかります。この頃は馬喰橋付近は鎌倉・江の島方面から西に向かう道の一つとして、そこそこの交通量もあったと思われます。
ここから南に少しいった片瀬の地蔵堂(片瀬にその跡が残っています)では、鎌倉時代に一遍聖人が4か月逗留して踊り念仏を行った事で有名です。片瀬付近は、刑場があって、大河ドラマ(鎌倉殿の13人)で有名になった大庭景親が打ち首になったとか、元の使者が北条時宗に処刑された刑場があったり、戦の場にもなった等歴史の舞台になっています。片瀬地区にはかなり多くの人が住む地域になっていたらしいですね。
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時代を下って、江戸時代になると 片瀬の詳しい絵図が登場します。この絵図によれば、境川(当時は河口付近は片瀬川と呼ばれていた)は馬喰橋のすぐ横を流れるようになっています。鎌倉時代から江戸時代の間に流路が大きく変わった事がわかります。
この頃になると、江の島弁財天詣でが盛んになって東海道の藤沢宿から観光の道としての「江島道」を庶民が歩くようになりました。最初にご紹介した「片瀬歴史マップ」ではその当時の馬喰橋の様子について、「この付近は江戸時代には江の島参詣の往来や水上交通の拠点としてもにぎわっていましたが、境川の洪水などにより橋は幾度となく流され、往来の人を困らせました。」と書かれています。(Reported By K&S)