【片瀬山の歴史】馬喰橋付近を歴史散歩 その1

かつて、片瀬山の坂を下りた所は目前に海があった

今回は片瀬山のすぐそばのおなじみの場所を「ぶら〇〇〇」風にゆるく歴史散歩してみよう という企画です。片瀬山から片中前の大坂を下りて境川の手前を右にまがって川沿いに少し行くと「馬喰橋」(うまくらばし)という小さな橋があります。境川に流れ込む小さな川を横切る橋です。この馬喰橋付近について、今年の3月末に藤沢市から発表があり(→こちら)、新聞等でも写真付きで取り上げられお読みになった方もおられると思います。(→例えばこちら
発表の内容は、馬喰橋付近の宅地開発に伴う遺跡発掘調査で、「縄文晩期の高潮か津波の跡がみつかった」というものです。この報道を聞いて、「えっこんな内陸まで津波が来たの?」「縄文時代にこのあたりはどんな所だったの?」と思った次第です。それで市役所を訪れて、遺跡発掘について市役所郷土歴史課の方にお話を伺ってまいりました。

馬喰橋から見た小さな川沿いの発掘地のあたり。発掘作業後、宅地として家の建設中だった。手前に馬喰橋に緑色の欄干がみえます。

Q:どういうきっかけで発掘調査をおこなう事になったのですか?
A:今回発掘をおこなったのは奈良・平安時代の集落跡である宮畑(みやばたけ)遺跡という所です。ここは「埋蔵文化財包蔵地」でして、そこで宅地開発がおこなわれることとなったので、昨年発掘調査をすることになりました。

宮畑遺跡発掘場所 (この写真ではまだ宅地化する以前の林になっている) 馬喰橋は藤沢~江の島を結ぶ道(点線)が小川を横切る所にある。片瀬山1丁目の北の鉄塔(写真一番左)の下には縄文時代の遺跡があり、以前土器や石器が見つかっていた GoogleEarthより
今回宮畑遺跡で見つかった帯状堆積物(矢印下の黒い所) 郷土歴史課提供

そこで実際、奈良・平安時代の土器が発掘されたのですが、さらに掘ってみたところ、砂地の層から黒い帯状の堆積物の層がみつかり、そこに含まれていた炭化物の年代測定から、今から約2900年前の縄文時代後期~晩期とわかり、海起源の軽石が含まれていた事から、その頃の高潮あるいは津波の跡と判断されました。

Q:こんな内陸まで高潮や津波が来たのですか?
A:そういう意味とは違います。実は縄文時代の頃はこのあたりは標高が低く、近くまで海だったのです。その後だんだん隆起して今のようになったのです(下記の地図を見てください)。今の道路や鉄道の位置に重ねて、かつての海岸線や土地の様子を示したものです。

赤矢印が馬喰橋の位置 
黄矢印が宮畑北遺跡の位置(縄文時代)
この地図は「ふじさわの大地(藤沢市教育文化センター2002年刊行)」より

Q:なるほど確かに!馬喰橋のあたり(赤矢印)はまさに海岸近くの山際のあたりで、海の波が来る可能性ありますね。確か近くに縄文時代の遺跡がありますね。(→詳しくはこちら
A:はい、混同しやすいのですが、縄文時代の宮畑北遺跡(別名片瀬山遺跡)があります。今の片瀬山1丁目の鉄塔のあたり(黄矢印)です。今回発掘した宮畑遺跡はずっと時代が後になります。高潮か津波が来た縄文晩期はまだそこは人が住んでいたというわけではないでしょう。
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こんな感じ?

というお話でした。

それで、ここからはレポーターの私の想像になります。
片瀬山1丁目付近に縄文時代に住んでいた人達はきっとこの辺りに降りてきて、目前の入り江のむこうに富士山をみたのでしょうね。右手の方を見れば、今の市役所のあたりにある高台にも縄文時代の集落があって、知り合いがいたかもしれません。目の前から広がる湿地帯がその高台の下まで広がっていたのでしょう。それが奈良・平安の頃になると、土地が隆起して高台から人が下りてきてこの辺りに住むようになり、それが宮畑遺跡になったのではないでしょうか。縄文時代にここが一時的に海水に覆われた跡があるというのは、「地震考古学」的に意味ある事であり、今後の研究に期待したいですね。宮畑遺跡の発掘については現在報告書がまとめられており、2024年頃には刊行されて、図書館等で見られるようになるそうです。馬喰橋の案内看板とはまた違うお話を聞く事ができました。郷土歴史課の皆様ありがとうございました。次回は馬喰橋の鎌倉時代~江戸時代のお話です。