【片瀬山の歴史】かつての「片瀬湊」を歴史散歩 

江戸時代 新屋敷橋近くにあった「片瀬湊」は藤沢地域の物流拠点

馬喰橋の第2回にご紹介した歴史散歩のお供に適した片瀬歴史マップには「片瀬湊」が紹介されています。それは境川の河口あたりの事と思われる方も多いと思いますが、実は馬喰橋のすぐ下流、片瀬山の大坂を下りた今のパイ二イの近く新屋敷橋あたりに荷揚げをする湊があり、むしろこちらの事を言うらしいのです。馬喰橋との位置関係は下記のような感じです。

片瀬湊の荷物揚場と馬喰橋との位置関係 ここから藤沢地域からの物資・藤沢地域への物資が江の島西浦を経由して相模湾の海上交通で運ばれた 写真はGoogleEarthで作成

片瀬歴史マップにはこの片瀬湊について、「馬喰橋より下流100mほどあたりは「河岸」(荷揚げ・荷積みの場所)と呼ばれており、江戸時代から明治時代にかけて地域流通の拠点の湊でした。この片瀬湊の様子は天保年間の絵図にも描かれています。片瀬湊からは藤沢地域の産物である麦・大豆・木材等の物資を江の島の西浦へ廻船で運び、西浦で親船に積み替え、江戸をはじめとした他の地域に輸送しました。入れ替わりに塩・酒・肥料等の他の地域の産物が陸揚げされていました」と解説が書かれています。実はこの荷揚げ場所を示した江戸時代の絵図が藤沢市文書館に保存されています。

藤沢市文書館提供 片瀬村耕地・荷物揚場等略絵図 上が保存原図 下が文字を書き起こしたトレース図

この中に、「荷物揚場」「ナイヤ(倉庫)」「古荷物揚場」「船掛り場」という言葉があります。「揚場」というのは船荷を陸揚げする所 という意味、「船掛り」というのは船の停泊場所 という意味です。境川(片瀬川)には荷揚場がこの馬喰橋近くと下流(本蓮寺近く)にあり、これらと江の島西浦に停泊していた親船の間を廻船が行き来して物資を運んでいた事がこの記録からわかります。天保年間の絵図には、この廻船が帆をあげて航行する姿が描かれています。現代の衛星写真で地図と比較できる形にしてみるとこんな感じです。上の絵図と今の河道写真(上流と下流に分けてます)を比べてみて下さい。

上流側 馬喰橋~上流の荷物揚場①(湊跡)~下流の荷物揚場②(湊跡)GoogleEarthで作成
下流側 下流の荷物揚場②(湊跡)~江の島西浦③ GoogleEarthで作成

この頃の川の流域の様子はどのような感じだったのでしょうか。

赤矢印①が馬喰橋近くの湊の位置 同②が本蓮寺近くの湊の位置 同③が大型船が停泊した江の島西浦の湊
この地図は「ふじさわの大地(藤沢市教育文化センター2002年刊行)」より

江戸時代になると、低湿地部分は鎌倉時代よりは少なくなり、境川(片瀬川)は馬喰橋の近くを流れるようになりました。馬喰橋近くの上流側の湊①、ずっと下流の湊②、母船の停泊した江の島西浦③の位置関係(地図の中の矢印)は赤い矢印の場所で示した所です。相模湾は海上物流がさかんだった様子で、その中で、片瀬湊は藤沢地域の物流の中心となる拠点だったことでしょう。(Reported By K&S)