オーナーが変わり波乱 開業後わずか11年での閉館
1963年(昭和38年)オーナーが変わる
このホテルとゴルフ場に株式市場で得た利益をつぎ込んできた佐藤和三郎氏でしたが、いつまでも幸運ばかりが続くわけではありませんでした。また、湘南地方だけでなく富士・箱根・伊豆とゴルフ場や温泉ホテル等にも投資を行っていた中、戦線の整理を迫られます。(「強羅花壇」が同時期の投資先として知られていました。当時のタグラベルは表に江之島ホテル、裏に強羅花壇が載っていた)結局、佐藤氏は江之島ホテルと江之島ゴルフコースを運営していた「江之島興行」を丹沢善利氏率いる朝日土地興業との合併という形で手放します。この方も以前触れました。これが1963年(昭和38年)9月の事です。その売却金額は佐藤氏がつぎ込んだ金額よりだいぶ少なく、土地評価額はその5倍以上もあって、丹沢氏にとっては良い買い物だったと思われます。そのもとで、江之島観光ホテルは着々と次の手を打っていました。
プールとロッジを開設
こうした形でオーナーが丹沢氏になった江之島観光ホテルですが、1964年7月15日には南庭にプールを開業し、8月には近くの松林の中にロッジを開設します。こうして一層リゾートホテルの色合いを濃くして、新しい時代のレジャースタイルの提供を目指していました。おりしも東京オリンピックのヨット会場となった江の島付近は観光客でごったがえし、ホテルすぐ横を通る京急有料道路には満員の乗客を乗せた大船⇔江ノ島間のバスが走っていた頃です。
そしてプールやその夜景はもし今現在ここにホテルがあれば、誰でも行きたくなる、素晴らしい眺望だった事がわかります。
また、ホテルの前庭(駐車場側)には洋弓やベビーゴルフ場もあり、様々な顧客を想定してホテル経営が行われていた事がわかります。(いずれもパンフレット 三丁目 Iさん提供)
こうして、ホテル経営は順調に進むかに見えました。
不動産投資の失敗で情勢緊迫
しかし1965年(昭和40年)頃から、がぜん雲行きがあやしくなってきました。これはホテルの経営というよりは、丹沢善利氏の朝日土地興業が続けてきた強気の不動産投資が見込み違いで売れない土地を抱えてしまい、資金ショートしてしまった事によります。
詳しい日付はわかりませんが、おそらく1965年(昭和40年)にゴルフ場等と共に土地は丹沢氏の手を実質的に離れたものと思われます。最終的に三井不動産がその土地を手に入れて早速片瀬山住宅地の造成にかかりました。そのかたわらで、まだ江之島観光ホテルは朝日土地興業の手で営業を続けていました。
ついにホテル売却 三井不動産の手に
1965年(昭和40年)秋には丹沢善利氏は会社の実権を失い、再建委員会(三井不動産江戸社長もメンバー)の手に再建が委ねられ、最終的に翌年3月丹沢善利氏は社長を退きました。そして1966年(昭和41年)6月15日をもって、ホテルも三井不動産に売却され、それと共に営業を終了しました。それを示すのが下記の資料です。
努力の末に神奈川県を代表するホテルの一つになりながら、オーナーの土地投資の失敗からホテルを閉めなければならなくなった経緯は、関係者にとっては悲しかったことでしょう。一方で、そのおかげで今の住宅地があることも確かです。
片瀬山住宅地誕生の場が最後の舞台
1966年(昭和41年)夏に営業を終えたホテルですが、翌年新たな舞台となりました。
1967年(昭和42年)7月、全国紙に「片瀬山」住宅地の広告が掲載されました。これを見た多くの人を集めて第1期の申込受付会場になったのが、旧江之島観光ホテルの建物だったのです。この時は順番取りのために片瀬海岸のホテルに宿をとってこの申込会場に向かったという話を当時会場に並んだ方から伺うことができました。
この会場を最後にホテルの建物は解体され、その土地は今、片瀬山五丁目の一角になっています。まさにその直前1967年(昭和42年)6月の航空写真があります。
こうして片瀬山にあった湘南を代表するホテルは姿を消しました。わずか開業から11年の営業でした。すでに50年以上がたち、多くの人の記憶から消えかけていますが、日本の戦後の一時期に湘南地域を象徴する眺望で人々の憧れの的であったホテルがこの地にあったというのは、記憶にとどめておいていただきたいと思います。
本記事の執筆にあたり、多くの方の資料提供やお話を伺いました。ありがとうございます。資料の出典はそれぞれに記しました。個人からご提供いただいたもの以外の多くの記録類は国会図書館デジタルコレクションで検索して見つけられます。航空写真は国土地理院のサイトからご覧になれます。(Reported By S)