古道の今を歩いてみた
前回ご紹介した「片瀬通り」を梅雨前のある日実際に歩いてみました。片瀬山の南にあたる片瀬東り町にある密蔵寺から急坂を片瀬山に登り、三丁目の給水塔(腰越配水池)を経由して二丁目から山道を下りて北の川名通り町に至る道です。
片瀬の密蔵寺(鎌倉時代末期開山)の門前にこの道標があります。この裏には 密蔵寺〇丁半 泉蔵寺〇丁と各寺までの距離が書いてあります。この道標はどこからか移設されたものは確かなのですが、数字の読取が困難で、もとあった場所が諸説ありよく分からないのです。前回ご紹介した文章では、これが今回歩く道「片瀬通り」沿いにあったものを移したものではないか という説をとっています。
密蔵寺に向かって左側にある片瀬山に登る道が「片瀬通り」の入口にあたり、かなりの急坂です。
この急坂を登る途中で後ろを振り返ると江の島がよく見えます。この道は以前記事にした江之島ゴルフコース裏に登る近道でもありました。(江之島ゴルフコースがあった頃その2)
片瀬の町を通る江之島道から片瀬山そしてそこを通る「片瀬通り」の関係は下記の写真のようになっています。
この急坂の途中右手に「片瀬通り公園」という小さな公園があります。片瀬通りという名前がわずかに残る施設と言えます。
前回も示しましたが、坂を上った片瀬山5丁目から4丁目・3丁目を通って最高地点だった現給水塔の足もとにある片瀬山東公園付近まで尾根筋を通った道が通っていました。今はもちろん住宅地ですので、まっすぐ進むことはできません。しかし、この道が通っていた頃を想像すると木立の間から富士山と海と江の島が見えて、さぞかし眺めが素晴らしかったと思われます。それはゴルフ場やホテルを訪れた人が皆感じた事だったように・・。
現給水塔付近から尾根筋にあたる道を北に向かって歩いて、2丁目の端の電力線の鉄塔がある所でまた分岐があります。住宅の横に細い山道への入口があります。
分岐から北側の道を示したのが下の写真です。
住宅地を左に見て、細い道を歩くとだんだん山道らしくなってきます。道の右はフェンス等で仕切られていて、この道が藤沢市と鎌倉市の市境になっているのが、あちこちにある市境の標識でわかります。
しばらく行くと道は簡易舗装のようになり、山道ではなくなります。狭い所はほんの数百メートルで全体としてはゆるい坂道が続いた後、ちょっと開けた所に出ます。道の右手には東レの基礎研究所が見えます。
坂を下りて左手に進み、清水川名谷戸の入口を左に見て進みます。その先に江戸時代から続く神光寺があります。ここももともとは手広の青蓮寺の末寺です。
神光寺に至る少し手前を右に折れると、「川名通り町市民の家」があります。
市民の家の入口にあるプレートには「平安時代末期に起きた平将門の乱を平定したのが、村岡地域に居住していた平良文です。良文の子景政は源義家に従い従軍しました。通り町はそうした武士や軍馬が通行休憩した場所であったことから起こった地名で、これをとって川名通り町市民の家と名付けました」とあります。
片瀬山の南北にある「川名通り町・片瀬東り町」をつなぐ片瀬通りはこの頃からの道ではないか?と前回ご紹介した文章で説が述べられています。
所要時間の観点で見てみましょう。今回実際に歩いた時間を比較してみました。片瀬密蔵寺→川名通り町は33分で行けました。一方平地を歩いて川名通り町→片瀬密蔵寺までの所要時間はかなり遠回りであることもあって、47分かかりました。明治時代には川名通り町は片瀬村の行政区に入っていたために、片瀬に用事のある人は平地を行く江之島道よりも片瀬通りを行く方が近かった可能性があります。少々の山道が平気なら景色も良いしこちらを通ったであろう事が想像できます。
この片瀬山を通る道から分岐して二つの方向に分かれる道の先はひとつは現一丁目の駒立山 江戸時代の鉄砲場(大筒の発射場所)です。今は片瀬配水池があります。もう一つは鎌倉市手広の青蓮寺(鎖大師)です。その今の姿をお伝えしておきます。平安後期からかもしれない古道は今では道として現存するのは北の三分の一ほどになっていますが、地名や公園の名前にその片鱗を残していることがわかります。密蔵寺の前の道標が全てを知っているのかもしれません。
参考資料 わが住む里 藤沢市総合市民図書館刊 第69号(2020年)
(Reported By S)