【片瀬山の歴史】片瀬山がゴルフ場だった頃 その2

江之島ゴルフコースの日常

前回は江之島ゴルフコースの誕生とそのオーナーであった佐藤和三郎氏についてご紹介しました。ではその頃の江之島ゴルフコースの毎日はどんなものだったのでしょうか。当時の様子を知る方にお話を伺う事ができました。
片瀬地区の町内会で長く会長をやっておられて片瀬の皆さんご存じの中島尚之(たかし)さんです。
中島さんは1939年(昭和14年)生まれの今84歳です。1955年(昭和30年)高校に入学し、その年から卒業の1958年(昭和33年)の春まで3年間江之島ゴルフコースのアルバイトキャディーとして勤められました。ゴルフコースの開場が1955年4月ですから、ほとんど開場直後からのお勤めと言えましょう。

江之島ホテルのPostCard 三丁目Iさんより提供 再掲

絶景のゴルフ場だった
Q:この写真のような感じだったのですか?
A:本当にこの通りだったよ。とにかく素晴らしい景色だったね。この写真は富士山の景色だけど、富士山、伊豆半島そして海から江の島まで見晴らせたからね。
今までにないアルバイト
Q:どんなきっかけでアルバイトするようになったのですか?
A:先輩から「やってみないか?」って誘われたんだよ。それまでここ片瀬では高校生のアルバイトといったら、夏の間の海の家関係だけだったね。海水浴場というのは主に東浜が中心で、西浜はまだ水族館もなくて、地元の人が行ったり、企業の海の家が少しあるくらいで、アルバイトの口は東浜だけだったんだ。
Q:通年でできるというのは良いアルバイトだったのでしょうね。休日だけだったのでしょうか?
A:実は休日はもちろん、平日も午後3時頃から行くことがあったんだ。ハウスキャディーさん(社員のキャディー 女性が多かった)もいたんだけど、足りなくて学生アルバイトにも仕事が回ってきたんだ。夏休みの期間などは週によっては4回くらい行っていたかな。
Q:具体的にはどんな仕事をしていんですか?
A:密蔵寺と今の片瀬山タウンハウスの間の道を上がっていくと、ホテルの事務室に出るので、そこで出勤の登録をして待っていると、どのコースの誰の所に行ってくれって言われるわけさ。だいたいお客さん4人でコースを回るんだけど、その場合2人から4人のキャディーがつくわけね。2人の場合は一人でお客さん2人分のバッグを担ぐんだけど、ここのゴルフ場はボール探しが一仕事なんだよ。ボール探しとなると一人が探しにいくからもう一人が4人分を担いでコース内を移動するわけで起伏が多くて大変で。すごくハードだったね。若くないととても勤まらないのさ。

1963年(昭和38年)6月25日のゴルフコース全体の映った航空写真 国土地理院サイトより ●現〇〇〇という形で現在の施設の場所を記入して現在との比較ができるようにした。密蔵寺横からあがった所に江之島ホテルがあった。以前砲台のあったあたりは崩されてホテルの入口近くの最初の写真の撮影場所付近になっていた。各コースを隔てて谷が切り込み、ボール拾いで見つからないとOBになりやすいコースだった事がわかる。

きついけどお金になった
Q:そんな大変なアルバイトで実入りはどうだったんですか?
A:18ホールやるとへとへとになるんだけど、結構チップをくれる人がいて、それも入れて1日1000円くらいになった日もあったね。(当時のキャディフィーはハーフで120円程度)。当時はラーメン40円、そば20円、初任給も1万円以下だったからね。
セパードと言われて難コースで役立った能力
Q:そんなにもらえるというのはすごい事ですね。ご指名とかあったのですか?
A:そうなんだよ。おれはボール探しが得意で、コースの間の谷の様子もよく知っていて「セパード」とか言われてたんだ。猟犬みたいにボールを見つけるからって。打球のコースと勢いから判断していたんだ。谷にはヘビがいっぱいいて、そういうところではロストボールも拾えたものさ。実は父が鉄砲持っていて猟についていったから片瀬山から村岡にかけての山はよく知っていたんだ。当時は結構賭けている人がいて、OBは影響が大きかったね。
Q:どのホールが大変だったとかはありましたか?
A:3番の谷越えとか、5番の「馬の背」とか・・馬の背っていうのはフェアウェイが細い尾根みたいなので、ちょっとそれるとすぐOBになってしまうんだ。

航空写真の向きにあわせて上を北にしたコースガイド図 江之島ホテルの前1番からスタートし、18番でホテルに戻ってくるような配置になっていた。先ほどのゴルフ場航空写真と比較して見られるように北を上にしてあります。「東京周辺のゴルフ場コースガイド ジャパンゴルフタイムズ社, 1959」及び「全国ゴルフ場案内 自研社週刊ゴルフ編集部1958」を元に編集部が作図  

記憶に残るお客さん
Q:どんな方がお客さんだったんですか?有名な人が来ましたか?
A:商社の人とかが多かった記憶があるね。また外車が結構あったね。やっぱりまだゴルフはお金持ちがやっていたから。
 あと政治家の人、河野謙三さん、という参議院議長やった人もよく来ていたね。声かけてくれていい人だった。あと女優さんもいた気がするな。我々は若いからいいけど、アップダウンが多くてコースを回るだけで結構体力を使ったから大変だったろうね。実はコース移動の際に谷を登ってとなりのコースに行くのが困難な場所があり、そういう所にリフトが整備されてました(4か所)。2本のレールの上を走るタイプでした。
でも当時としては庶民的で行きやすいゴルフ場だったんだと思うよ。景色や立地が良いのにその割にお安くプレイできたんだから。
Q:佐藤和三郎さん というオーナーの方の考え方だったと思うのですが、その方はいらしてましたか?
A:あー見かけた、小柄な人だったね。直接話はしなかったけど。芸者さんみたいな人つれていたなあ。
◆楽しい思い出うれしい思い出
Q:今から思ってこのアルバイトどうでしたか?
A:とにかく楽しかったね。仕事を終えて今川焼を沢山買って家に帰って、弟や妹たちに食べさせると本当に喜んで、それが良かったなあ。時々打たせてくれる人もいて、見よう見まねでやってみると結構うまくいったりして、チップもくれるし楽しかったなあ。

密蔵寺横の道を上がっていく道(昔ホテルへの近道で、片瀬山5丁目と片瀬を結ぶ道として現存)から江の島を望む

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江之島ゴルフコースの終焉
江之島ゴルフコースを引き継いだ丹沢善利さんは1964年夏に江之島ホテルにプールを作る等の投資を行い、やる気まんまんでしたが、その直後から経営する親会社の朝日土地の経営が傾き、1965年の早い時期までにゴルフコースは営業を終了することになります。ホテルは1966年6月まで開いていましたが、佐藤和三郎さんの夢はこうして終わりをつげ、土地は色々な経緯を経て三井不動産に渡り、片瀬山住宅地の造成が開始されました。(→片瀬山に高級ホテルがあった頃その3
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編集ノート
片瀬山住宅地の外縁は一部をのぞいて見事にゴルフ場の外縁と一致しており(航空写真参照)、今の片瀬山住宅地はこのゴルフ場があってこその存在だと分かります。佐藤和三郎さんが株から足を洗い夢を託したこのゴルフ場は「良質な住宅地」を求める多くの人の夢をかなえる土地となったわけです。日本のゴルフの大衆化に一歩を記した江之島ゴルフコースも歴史の一ページとなった今、ささやかな記録として読んで頂ければ嬉しいです。この記事については1丁目のSさんの写真ご提供、中島尚之さんの御協力を頂き感謝申し上げます。使用した写真・図はそれぞれ出典を示しました。また参考にした資料は以下の通りです。
・過去の写真/地図と現在地の場所の対応同定 全国Q地図 今昔マップ
・戦時中の片瀬・片瀬山について 
  藤沢市広報番組しおかぜ藤沢「戦時下の藤沢~1945年~」(1995.8放送)
  ふじさわ戦争跡マップ 同 軍事施設マップ
  相模湾上陸作戦 第二次大戦終結への道 大西比呂志他 有隣新書
  私たちの住む片瀬・江の島昔の話「私が小学生だったころの話」
       片瀬地区社会福祉協議会・青少年子育て福祉部会2021
・佐藤和三郎氏・丹沢善利氏の関係について
   1963年~1965年の経済評論雑誌に多数記事が掲載されています。
   →国会図書館デジタルアーカイブで見られます。
(Reported By S)