【片瀬山の歴史】片瀬山がゴルフ場だった頃 その1

昭和30年絶景の地に誕生した江之島ゴルフコースが片瀬山住宅地の原型

江之島ゴルフコース 南方向を見る 右手奥にクラブハウス(江之島ホテル)が見える その左にうっすらと江の島が見える 藤沢市文書館蔵

片瀬山住民の多くの方はお聞きになった事があると思いますが、片瀬山住宅地は以前「江之島ゴルフコース」というゴルフ場だった場所です。今回はその誕生と終焉、そして当時キャディーのアルバイトをしておられたNさんの思い出からその頃の片瀬山をお伝えしようと思います。以前「片瀬山に高級ホテルがあった頃」その1その2その3 でご紹介しました「江之島ホテル」はもともとこのゴルフ場のクラブハウスとして建設されました。
まず初めに少し時代をさかのぼって戦前のお話からです。
戦前、藤沢駅の北には日本を代表するゴルフ場があった
1932年(昭和7年)今の藤沢本町駅の北から今の善行の県立スポーツセンターの周辺に20万坪の広さを誇る「藤澤カントリー倶楽部」がオープンしました。台地上のコースからは富士山・相模湾・江の島を見渡せ、翌1933年の全日本プロゴルフ選手権、1938年には日本オープンゴルフ選手権がここで開催されました。多くの政財界要人が会員でしたが、時局の緊迫でわずか11年間で閉場しました。上流階級のお遊びだという非難が背景にあり、その跡地は海軍航空基地となりました。
◆戦時中の片瀬山
戦時中江の島から片瀬山丘陵、鎌倉山にかけては、米軍の相模湾上陸を阻止するための様々な施設がつくられました。(→江の島大船有料道路その2) 1945年(昭和20年)、終戦の少し前、片瀬の乃木高等女学校(現白百合学園幼稚園小学校の場所)には第53軍(護東部隊)の司令部が置かれ、首都防衛の最前線でした。片瀬山には高射砲陣地や相模湾をにらむ砲台が設けられていました。とはいえ、そうした陣地以外の片瀬山は谷戸に田畑が入り込む静かな山あいでした。

終戦半年後の1946年2月15日米軍撮影の片瀬・片瀬山付近の航空写真 国土地理院国空写真サイトより 

戦後、佐藤和三郎氏が江之島ゴルフコースを作るまで
戦後片瀬山にゴルフ場を作ったのは兜町の相場師としてブーちゃんの愛称で知られた有名人、合同証券社長佐藤和三郎氏でした。この方をモデルに作家獅子文六が「大番」という小説を書いて映画にもなり大ヒットしてとても有名になりました。

佐藤和三郎氏「経済知識」1954年11月号より 国会図書館デジタルコレクション

佐藤氏は新潟県新発田市出身で小学校卒業後兜町で働き始めて頭角を現し、戦後旭化成の仕手戦に勝利して十数億円の財を築きます。
そしてゴルフの面白さにはまってしまいました。この頃のゴルフは昔からの伝統でマナーがうるさく言われました。そういう事に関心のない佐藤和三郎氏はコース上で立木に立小便した、芸者とコースに出る等したと伝えられ、有名コースの会員から除名になってしまいます。

ちょうどその頃佐藤氏の合同証券は不動産業への進出を加速していた時期でもあり、江の島近くに土地を買ってゴルフ場を作り、自分の好きな時に行けるゴルフ場を実現しようと考えて作ったのがこのゴルフ場「江之島ゴルフコース」でした。経済が豊かになるとレジャー・リゾート施設が必要になるという読みもあり、これからは株よりは不動産の方が良いと考え、富士山周辺や伊豆箱根等に多くの土地や旅館(強羅花壇)を購入しました。佐藤氏はゴルフ場の土地に1億4000万円、ゴルフ場の整備とホテル建設に2億円を投資したと言われています。このあたりのいきさつはだいぶ脚色が入って場所や名前を変えていますが「大番」にも「大磯のゴルフ場」という形で出てきます。結局、小説の中の主人公(そこではギューちゃん)は兜町で倒れて亡くなるまで相場に生きましたが、モデルの佐藤氏は1958年小説の最終回が週刊朝日に掲載される直前に兜町から足を洗い、その3年前に開場した江之島ホテルと高級旅館箱根強羅花壇を軸にした不動産業で新たな人生を生きる事になります。

江之島ゴルフコースの概要
約16万坪 18ホール 6374ヤード パー71
設計 浅見緑蔵
運営会社 江之島興行 パブリックコース
代表者 佐藤和三郎 支配人 佐藤昌英
(この方は娘婿 後に飯塚清作→沢田誠之)
副支配人 堀 馴次
(後に沢田誠之→平田保彦)
開場 1955年(昭和30年)4月24日
クラブハウスとして江之島ホテルを建設

江之島ゴルフコース 藤沢駅方向(北西方向)を見る 藤沢市文書館提供

景観のすばらしさの割に「庶民的」なゴルフコースだった
建設当時は高度成長が始まったばかりで、まだゴルフは上流階級の社交場という性格が残っていた時代でした。でもゴルフコースガイド(1959 年)を見ると、佐藤氏の方針なのか当時としては行きやすいゴルフ場であった事がわかります。例えば平日のグリーンフィーを比較してみると高級コース保土ヶ谷カントリーは会員は功成り名とげた人だけが選ばれ、ビジターは平日2200円、レストランは夏でも上着着用でした。同じく小金井カントリーに至っては2800円でした。一方、江之島は平日1200円です。そして「景観は関東ゴルフ場中最高」と評価され、ただコースは起伏が多く厄介千万と書かれています。もともとの谷戸地域をゴルフ場にした点でそうした評価になったと思われます。

東京周辺のゴルフ場コースガイド料金表等 ジャパンゴルフタイムズ社, 1959 国会図書館デジタルコレクション
当時の物価 葉書5円/枚、電車バスは近くなら10円、この年の公務員初任給は高卒7千円 大卒1万円程度 人事院
同上 各コースの注意点等が詳しく掲載 佐藤和三郎氏(ブーちゃん)の傑作とあり、展望は関東一との折り紙付き 一方でO・B注意が多く、ロストボール多発の悲劇にも触れられています。国会図書館デジタルコレクション

株から足を洗った佐藤氏のその後

昭和34年兜町から足を洗った佐藤氏はまだまだ注目の人だったのですが、それを伝える新聞記事があります。それによれば佐藤氏は普段は二人の娘の家、江之島ゴルフコース、強羅花壇(後妻の経営)を渡り歩き、住所不定だそうで、週二日はゴルフをして健康的な生活を送っていると書かれています。しかし新たな不動産投資には貪欲でこのインタビューの直前にも富士・伊豆方面に広大な土地を買い、温泉を探すと述べたと伝えられてます。

1959年5月24日朝日新聞 江之島ゴルフコースでプレーする写真付きで「あの人はどうしている」として掲載

この記事の4年後1963年(昭和38年)佐藤氏はこの江之島ゴルフコースと江之島ホテルを経営する江之島興行を手放して、ゴルフ場と江之島ホテルは丹沢善利氏のものとなりました(→片瀬山に高級ホテルがあった頃その3)。中央高速・東名高速の開通見通しをにらんでレジャー・リゾートとして富士・箱根・伊豆方面に集中するための資金調達という目的だったと伝えられます。佐藤氏は1980年(昭和55年)に亡くなりますが、その後も佐藤氏の一族が長く強羅花壇と富士高原・籠坂ゴルフコース(記事の通り富士の絶景と温泉が売り)の経営に携わっていました。次回はこの江之島ゴルフコースでキャディーのアルバイトをしていたNさんに当時の様子をお聞きします。
(参照資料はその2の後にまとめます。)
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*藤沢カントリー倶楽部(戦前藤沢駅北にあったゴルフ場)のその後
藤沢カントリークラブのコース地図等の記事 文書館だより12号 文書館だより13号
閉場後なんと跡地は海軍航空基地となり、滑走路も作られました。戦後は様々な経緯を経て神奈川県立スポーツセンター、聖園女学院、藤沢翔陵高校の敷地となっています。滑走路は昭和39年まで民間飛行場(藤沢飛行場)として利用され、現在は荏原製作所の工場敷地となっています。

グリーンハウス
県立スポーツセンター グリーンハウス 県ホームページより

現在当時の施設として残っているのはゴルフ場クラブハウスとして建てられた「グリーンハウス」のみです。著名な建築家レーモンド設計の建物で戦前の彼の代表的な作品であり、市民の保存運動が実って、登録有形文化財として登録・保存され、見学する事ができます。