京急 大船・鎌倉駅~江の島路線の長い歴史を振り返る
3月19日京急バスは以下のようなプレス発表を行いました。

つまり、今年5月中旬に旧京急専用道路を通るバス路線の運行を終了します(鎌6、船6)。及び梶原住宅地と鎌倉を結ぶ路線(鎌2、鎌51)を江ノ電バスに譲って撤退するという内容です。実は前者は以前記事(江ノ島~大船有料道路 その1、その2、その3)にした、昭和5年(1930年)から運行していた歴史あるバス路線です。その95年の歴史に幕を閉じることになるわけです。前回の記事は、日本初の自動車専用有料「道路」としての歴史をお伝えしましたが、今回はバス路線について、その歴史を振り返り、次回は乗り収めをしたレポートをお伝えしようと思います。
バス路線創設期
1930年(昭和5年)にこの大船~江ノ島間の自動車専用有料道路が開通したのですが、同年から部分的にバスの運行が開始されていたようです。大船~鎌倉山~江ノ島間の乗合自動車運行がそれまでの30分間隔が15分間隔となったのが1933年(昭和8年)という記録が残っています。当時はバスのことを乗合自動車と呼んでいました。

現在の大型バスより小さく幅も狭い。この車がすれ違う事を想定して道幅が決められたので、今も道が狭い。
当時としては画期的な全線舗装道路で乗り心地も上々ということで、鎌倉山に住む人々の交通手段として、そして小田急江ノ島線の開通(昭和4年)とともに注目を集めた江ノ島への新たな観光ルートとして脚光を浴びました。海岸線に車で走れる道路が無かったために江ノ島へ車で行くルートとしては、これしかありませんでした。当時羨望の的だったこの道は「私道」だったという点が後々弱点となります。

鎌倉山からは、ほぼこの自動車専用道路だけで大船駅まで行けたこともあり、鎌倉山~大船駅間の所要時間はわずか7分、運行間隔は15分、東京駅までの通勤時間は通しで1時間でした。その利便性から大会社の役員、近衛元総理ら政界の大物、高級官僚や俳優等が鎌倉山に多くの邸宅を構えます。
また道沿いには住宅会社が斡旋した記念樹の桜の苗木数百本が住民の手で植樹されました。

路線は京急へ、そして戦争での荒廃
住宅地の名声は高まっていましたが、運営会社の経営の内実は厳しく、バスまで税務署に差し押さえられそうになり、江ノ島~大船間の有料道路とバス事業は1938年(昭和13年)に当時湘南方面のバス事業の統合・拡大を図っていた京急に売却されます。さらに1941年(昭和16年)に始まった第2次大戦とともに、鎌倉山は大きく変わってしまいます。ゴルフ練習場はなくなり、帝国ホテルが食事を提供する紳士淑女の交流の場だった公共施設等は荒れてしまいます。燃料の枯渇からバスは木炭バスとなり、さらに薪バスとなってしまいました。

1945年(昭和20年)終戦を迎えますが、その頃になると力のない木炭・薪バスは乗客を満載すると坂を登れないことがあり、ついには鎌倉山~鎌倉駅を結ぶ路線の鎌倉山ー常盤口の間の坂道で、畑に転落する事故が起きてけが人が出てしまいます。
原因は老朽化したエンジンの不調で、以降乗客が激減してしまいました。
高級な別荘邸宅は接収されてアメリカ軍属が住むようになり、サンフランシスコ平和条約の締結(昭和26年調印翌27年公布)までは外人居住者が目立つようになりました。
皮肉なことに水道や電気等のインフラは彼らのために整備されました。一方で記念樹として植えられた桜は薪として盗伐されて、数が減りました。
道路の傷みはもっと深刻で、すべてが私道であったために、鎌倉市はその整備にあたる必要がなく、補修資材の入手困難と誰が費用負担するかはっきりしない状況で、有料道路としての営業は中止していました。1950年(昭和25年)になると、こうした問題が一応の解決を見て、国産ディーゼルバスの登場もあって、復興の動きが出てきます。有料道路の料金徴収が再開され、一時休止していた大船~江の島バス路線運行も再開されました。

運行再開後は観光路線として順調に発展します。1958年(昭和33年)になると、はとバスと提携して都内から江の島・鎌倉周遊観光バスも走るようになり、そして1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に大船~江の島の有料道路通過車両とバス路線の需要は一気に増えました。オリンピックにあわせて江ノ島へ車で渡れる道路橋ができて、オリンピック翌年の1965年長らく大船から江ノ島口(龍口寺)までの運行だったバス路線が江ノ島海岸経由で江ノ島湘南港までとなりました。この頃の状況は前回の記事その3に記しました。

1971年(昭和46年)に上空を通る湘南モノレールが全通しましたが、まだまだ多くの乗客を運び続けました。モノレール開通8年後の1979年(昭和54年)の京急バスの路線表によれば、モノレールにだいぶ乗客が移ったあとも、大船~鎌倉山は約40往復/日、大船~江ノ島も24往復を維持していたことがわかります。

発駅別バス路線表 赤が大船~鎌倉山、青が鎌倉~鎌倉山路線 京浜急行八十年史 京急電鉄 1980年
しかし、その後モノレールの運行本数が増えてバスの乗客が減少し、有料道路を市に譲渡して(1984年鎌倉市部分、1989年藤沢市部分)、一般道路としての性格が強まり、時刻表通り運行するのも困難になってきました。(その3)どんどん減便が進んで、ついに昨年からは平日の運行取りやめとなっておりました。(片瀬山をめぐるバスの話題)
もはや路線廃止は時間の問題 と言える状況だったのです。そして今回の発表となりました。日本の近代化とともに、時代の先頭を走っていた路線もその役目を終えていたわけです。でも沿線に住み、生活の中でお世話になった記憶はいつまでも残り続けます。(私の通学バスだった)。そしてここに記事として残すからね~!
参考資料:
「昭和初期の別荘地開発と住宅地形成に関する研究~鎌倉山住宅地開発にみる住文化の継承と変容~」(住総研 研究論文集No39.2011年版)原文リンクはこちら
*「叢談 鎌倉山」 不動建治 鎌倉山風致保存会 1971
*「京浜急行八十年史」 京浜急行電鉄 1980年
*「最近10年の歩み・創立70周年記念」 京浜急行電鉄1968年
写真やホームページ等の出典リンク先はそれぞれに示しました。
*のついた資料はいずれも国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。