【いいね!ご紹介】パイニイが切り開いた道 その1

片瀬山店の誕生 時代を先取りしたお店

今回は片瀬山に住む皆様ご存じ、今や老舗のベーカリー パイニイでお話を聞きました。このお店ができたのはほぼ40年前、今もほぼそのままの姿で今に至っています。お店ができた当時、その外観は「郊外型ベーカリー・レストラン」という 時代を先取りするものでした。

その数年前にできた東急ハンズ藤沢店(全国での第1号店だった)といい、藤沢にはこんな新しい感じのお店があるよ! と友達に自慢できたお店でした。今では老舗の湘南の名店として知られるお店です。今回は創業者の松野恭也さんと、片瀬山店店長の辺見さゆりさんを中心にお話を聞きました。

1階にベーカリー・デリカテッセン・レストラン 2階に工場がある この6月に改装して ロゴが縦書きから横書きに、商品説明がOriginal Foodだけのシンプルな外装になりました。

創業から片瀬山に店を出すまで
片瀬山店の以前にもお店を出されていたんですね?
ーー松野さん はい。創業は1972年です。藤沢駅前に最初のお店を出しました。私の家は横浜の和菓子店なんですが、学校を出てから、大阪の洋菓子のお店で修行しました。そこのオーナーの方から「好きな町でやりなさい」というアドバイスを頂いて、迷わず藤沢でお店をだそうと決めました。母の実家が鵠沼にあり、よく遊びに来ていて藤沢はなじみのある土地だったからです。駅前のお風呂屋さんの跡地にできたビルの1階でした。今はそこに松屋さんが入っています。当時の藤沢は大発展期、パンを実際に焼いて売るお店も珍しく大変繁盛したんです。ただ、人通りが多くて落ち着かない、車が止められないという所でした。落ちついた住宅地で店を出したい と思い、まず西鎌倉その次に本鵠沼にもお店と工場を、そして1982年にここ片瀬山に出店したわけです。

パイ二イ西鎌倉店

片瀬山店の上の階でパンを焼いて販売し、店内レストランでも、パンを出してお客様にサロンとしても使ってもらえるお店を目指していました。その後1992年頃には駅前と本鵠沼を閉めてここを本店と定めて今に至っています。
お店の奥で焼いているのではなくて、お店の上に工場があるんですね!

軌道に乗せる時期を支えた山食パン
確かに当時は「パンは駅の近くのお店かスーパーで買って帰るもの」だったと記憶しています
ーー松野さん 住宅地にパン屋さんを出すというのは当時は常識はずれでした。オープン当初は何としてでも知ってもらいたいと、中心に据えていた山食パンを持って、アルバイトの学生さん達と片瀬、片瀬山、西鎌倉の在宅の方に試食をお願いしてまわりました。
またおいしいパンを、という思いで粉は最高級のものを使い、対流式の窯が良いというので高価なドイツ製の窯を設置したりしたんですが、まあコスト高で苦労しましたね。あんまり商売上手じゃなかったですよね。その後も、お客様のご要望を聞きながら、色々な研究・試行錯誤を経てパンの種類も増やして今に至っています。

左 反時計回りで、手前オレンジブレッド ミルフランス、角食パン、山食パン、バタール
右 手前宇治抹茶ブレッド レーズンブレッド、黒糖ブレッド、ショコラブレッド(終売)、オレンジブレッド       

ーー辺見さん私が入ったのもここが開店してじきの頃で、とにかく粉は良いのを使っているというのを覚えています。

クロワッサン:ジャック・タピオ氏から直々に受け継いだもの
お店を見ると色々なパンがありますが、クロワッサンも多種類目につきますね。ホームページにはクロワッサンの話も出ています

クロワッサンタピオ  

ーー松野さん パイニイのパンにクロワッサンとフランスパンの流れが加わったのは、うちの職人がジャック・タピオさんというフランスでも有名な方の所で修行して、技術を持ち帰ったことからです。職人と言いましたが、実は私の三女です。現在も少ないイーストで3日間長時間発酵させて作るタピオさんのやり方を受け継いでいます。
~工場の仕事が一段落して来ていただいた三女の 園(その)さんに伺いました~

パン職人になろう、フランスに修行に行こうと思って勉強をされていたんですか?
ーー園さん それが、全然違います。タピオさんの所もほとんど飛び込みという形だったんです。そもそも、私は高校・大学とずっとスポーツをやっていて学校の先生になろうと思っていたのですが、大学を卒業する頃になって、スポーツをやり切った感があり、卒業後はパンを作る仕事がしたいと思うようになったんです。このお店で1年ちょっと働いた頃(2001年頃)に、たまたま日本からパリのパン業界を訪れるツアーのような機会があり、そこに参加させてもらいました。

ジャック・タピオ氏

そこで日本にフランスパンの技法を伝えたレイモン・カルヴェルさんを訪ねるという席がありました。この方は日本ではパンの神様と言われる方です。私はその会でジャック・タピオさんというカルヴェルさんの愛弟子の方の隣に座ったのです。その方に思い切って「弟子にして下さい」とお願いしたんです。タピオさんはその時は軽く愛想よく「いいよ」という感じだったので、日本に帰って手紙で本気の想いを書き綴り、何とか了解を取り付けて、パリに行くことになりました。

ーー松野さん 日本の業界の有力な方を通してちゃんと頼むというやり方もあったのかもしれませんが、親の力を借りないで飛び込んでいってやり抜いたのは自分の娘ながら、大したものだと思います。
ーー園さん 多少パンをつくった事があるにしても、まずほとんどフランス語がわからず、分量の話も最初はわかりませんでした。本当にがむしゃらな毎日でした。屋根裏の下宿部屋から早朝にお店の地下にある工場に行くんですが、そんな時間にパリの街を一人で歩くのはとても怖かったです。パリのパン工場というのは、どこもそうなのですが、鉄製の蓋のような入口を開けて梯子を下りていくというような地下にあるので、1日中地下にこもって仕事をしていました。

パイ二イのパン焼き窯の前のタピオさん 何度もパイ二イを訪れてくれました

それを1年半くらい続けて、タピオさんご夫妻にもかわいがってもらうようになりました。帰国してパイ二イでクロワッサンやパンを焼いていたのですが、ご夫妻には何度かこの店にも来ていただきました。
ーー松野さん その後タピオさんが亡くなる少し前に、ご自身で病院のベッドから電話をくれました。タピオの名前を残してほしいという連絡だったのです。それではいっそと、クロワッサンの商品名にタピオという名前を付けたんです。もちろんタピオさんのレシピを守って、それを受け継いでいます。

ーー園さん 今でも奥様とは時々電話で話をします。コロナで行き来できないのが残念です。
クロワッサンやフランスパンにはそんな物語があったのですね。次はレストランやデリカテッセン、お惣菜等についてお聞きします。