住民たちの労苦が遠因となった贈収賄事件とその後
砲術調練はどんな事がされたのか?
幕府の砲術を担当する部隊が参加して各種射撃方法の演習が行われましたが、片瀬山の発射場でも、御鉄炮打小屋、見分小屋、雪隠(トイレ)、身隠小屋等の設備が設置されました。
これらの運営・鉄砲場の現場の運営維持管理任務は、主に鉄炮方役人の佐々木氏と藤沢宿や近隣の村から選ばれる鉄炮方見廻り役の指示のもと藤沢宿の代官江川氏の協力を得て、近郊の住民による労役や厳しい規則によって支えられました。これらには周辺住民の大きな犠牲が伴いました。具体的には、助郷(すけごう)の負担(演習の際の人足・労役)、宿泊場所の提供義務、鉄砲場内での居住・耕作の禁止(片瀬でもしばしば立ち退き問題が発生した)、生活への障害(防風・防砂林の伐採、漁船の徴発)等です。
鉄砲場の歴史に残る大事件
天保3年(1832年)鉄炮方大筒役の佐々木卯之助親子とその部下が取り調べられ、評定所による厳しい吟味の後、天保6年(1835年)佐々木卯之助親子は伊豆諸島青ヶ島への流罪、部下の鉄炮方見廻り役5名は伝馬町の牢に投獄等、鉄砲場の多くの関係者が厳罰に処されました。鵠沼・辻堂・小和田・菱沼村の鉄砲場内で無届の不正耕作地がある事を藤沢宿の代官江川英毅(ひでたけ)・英龍(ひでたつ)親子が発見した事からこれが発覚しました。
佐々木家と江川家
事件当事者の一方の佐々木家は鉄砲場の現場管理者でしたが、幕府鉄炮方の三つの家の一つとして、和流砲術を秘術として一子相伝で伝えていました。もう一方の江川家は幕府の韮山代官(伊豆、駿河、相模、武蔵にある幕府直轄地の民政を行う その管轄地の一つとして藤沢宿が含まれていた)の家であり、代々民政能力を期待される家柄でした。
鉄砲場の実態:手心が必要だった?
実は佐々木家は以前から鉄砲場内の広い地域での新田開発を内密に認めており、得られる収入の一部は佐々木たち役人にも渡っていましたが、一方で地元を潤す事にもなっていました。佐々木氏は私腹を肥やすというより、鉄砲場の運営のためにも必要悪として現場に対する手心が必要という意図があったと思われます。一方で江川英龍は藤沢宿代官として鉄砲場の検地でこうした実態を見逃すわけにはゆかず(天保3年1832年)、佐々木卯之助らが厳罰に処せられたわけです。(天保6年1835年)。
その後の佐々木卯之助
佐々木卯之助は流された青ヶ島で33年過ごした後に明治を迎え赦免となりましたが、彼は戻らず、明治9年にそこで82歳の生涯を閉じました。明治31年地元茅ヶ崎村の村長が建てた碑文には「鉄砲場での耕作を願っていた農民に対する情あるはからいに感謝し、村の恩人佐々木氏を追悼する」という内容が記されています。海防政策を理由に負担を強いる幕府との間に立って、自分たちの事を考えてくれる役人に農民が感謝していた事がわかります。
その後の江川英龍
佐々木たちの処分が決まった年(天保6年1835年)、江川英龍は父の死去により正式に韮山代官となり藤沢宿だけでなく駿河・伊豆・相模・武蔵にある広大な直轄地の民政を担うことになりました。実はこの人、その後幕末の立役者の一人ともいうべき人物になります。
おりしも天保の大飢饉(天保4年~7年)に見舞われる中、低金利での貸付金制度の創設、種痘の実施等すぐれた民生政策で実績を上げ、新たな管轄地となった甲州を歩いて巡回して不正をただす(天保8年1837年)等で評判となり領民から「世直し江川大明神」と称えられるようになりました。彼は単に規則を守らせるだけの人ではなかったのです。
また非常に勉強熱心で代官の職務と並行して西洋事情や砲術を学び(天保4年~8年)、多くの知識人と交流しその知見を民政に活かしました。
老中水野忠邦の評価も得て、日本国内での名声は非常に高まりました。勝海舟は「あの頃は洋学といえば江川と佐久間(象山)という時代で、洋学を志した人で江川の門をたたかぬ人はいなかった。」と述べています。さらに英龍自身が幕府の西洋砲術の指導者となり、和流砲術から洋式砲術への大転換を図る軍事改革を実施する役目を果たしました(天保14年1843年鉄炮方兼務)。
そしてペリーの来航(嘉永6年1853年)後は幕府の海防政策に中心的な役割を果たします。そして、韮山の反射炉による製鉄(世界遺産指定)、大砲の鋳造、お台場築造等の実績を残しました。超人的な実務能力を持つ人だったのですが、ペリー来航2年後の安政2年(1855年)過労がたたって55歳で死去しました。
この間に「韮山塾」を開き、そこからは佐久間象山、橋本左内、桂小五郎、後に大山巌、黒田清隆等の人物が出ています。幕末の多くのスターたちと関わる有名人でした。また日本で最初にパンを焼いた人でもあり、初めてパンを焼いた4月12日が「パンの日」として記念日になっています。
明治になって鉄砲場跡を海軍が利用
幕末に廃止された鉄砲場は明治になってどうなったのでしょうか?片瀬は観光地・海水浴場として発展していきました。鵠沼は広大な砂原が別荘地として開発されました。一方辻堂から茅ヶ崎にかけては海軍陸戦隊が演習場として使うようになり、辻堂には兵舎もできて軍事演習地化が進みます。また大正5年には、この演習場への物資運搬を理由に地元民の請願により辻堂駅が誕生しました。
米軍が海軍演習場を接収ー朝鮮戦争に大きな役割を果たす
第2次大戦末期、米軍はこの辻堂演習場付近を上陸地点として東京を目指す上陸作戦(コロネット作戦)を準備していました。1945年夏の終戦でこの作戦は発動されませんでしたが、米軍はこの辻堂演習場に目を付けていました。終戦後は米軍に接収され、今度は米軍の射撃演習・上陸演習場(通称チガサキビーチ)として利用されることになりました。
昭和25年1950年に始まった朝鮮戦争では、ここで上陸演習を行った部隊が仁川上陸作戦に参加しました。マッカーサーが行ったこの作戦の成功が戦局に決定的な役割を果たしました。そして休戦が今に続いています。昭和34年(1959年)に演習場はようやく日本側に返還され、現在は辻堂海浜公園、辻堂団地、湘南工科大学用地等になっています。江戸時代に始まった演習場は、この年ようやくその役目を終えたのでした。私も地元にこんなに重要な「史跡」があり、優れた「人」がいた事は知りませんでした。(Reported By S)
参考資料:以下に主要なものをあげます。文中の写真や図についてはそれぞれ出典を記しました。他にも多くの資料を参照させて頂きました。お礼申し上げます。
〇相州鉄砲場について
「鉄砲場とその周辺の農民・漁民が負った苦労」出張千秋 わが住む里 第五十三号 藤沢市立図書館2004
藤沢市文書館 資料検索ページ
「鵠沼をめぐる千一話」鵠沼を語る会 No75 No93 No100 No223
〇江川太郎左衛門英龍について
「勝海舟」山路愛山 改造社版1929(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)
江川家文書データベース 財団法人江川文庫
江川太郎左衛門英龍と三島 個人ホームページ
〇海軍辻堂演習場・米軍辻堂演習場について
藤沢市文書館デジタル展示「辻堂海岸の300年」2016