【はじまりを探して】創立の頃 後編~片瀬山幼稚園ものがたり3

子供たちの心の母港 片瀬山幼稚園

前回お伝えしたように、園児の急増への対応が大変ながらも順調なスタートを切った片瀬山幼稚園でしたが、通っている子供たちやその父兄の皆さんはどう感じていたのでしょうか?開園の頃の園児のお父さんやお母さん、7名の方に集まっていただき、インタビューすることができました。また当時の園児の方の一部にも記憶をたどって頂きました。今回そこでお聞きした内容を中心にまとめてみました。
お話を伺ったのは次のような方々でした。80歳以上の方ばかりでしたが、素晴らしい記憶力で思い出していただき、ありがとうございます。
 入居時期 昭和47年(1972年)~昭和53年(1978年)
 入園時期 昭和47年(開園時年少2期生)~昭和55年(10期生)
 片瀬山幼稚園に入園した子供の数 1人が4家族 2人が3家族です。 

1972年昭和47年10月東公園から富士山を望む(再掲) この眺望があるからここに決めたという方も多い

Q.皆さんが片瀬山に住もうと思われたのはどんな理由からですか?
A.「富士山と海の眺望です!」(ほぼ全員)「子育ての環境が良いと思いました」「区画の広さ、上下水道の整備がされている事」「他も下見したけどここが良かった」
Q.眺望がよくて子育てしやすい と思ってここにいらして、片瀬山幼稚園に入園しての第一印象はいかがでしたか?
A.「建物が広くて立派、2階も素敵で入園が楽しみでした」「建物が素敵でした」「何と言っても近いのがよかったです。歩いて行ける」(ほぼ全員)「環境がよかったです」

家が少なくて風が強く、通園も大変生活も大変。
Q.期待を裏切らない良い印象だったようですが、苦労というような事はありましたか?
A.「まず入園申込が大変でした。入園希望者が多くて、朝6時起床で列に並びました。」
A.「初めの頃は家が少なくて通園が寂しくて怖かったですね。車の通行も少なかったですし、道は未舗装の所もあって歩きにくい所がありました」「風が強いと怖かったですね」
A.「お店がまだなくて、買い物は藤沢駅近くに行くか、あるいは御用聞きにお願いするかで、本当に不便でした。」

藤沢市文書館編藤沢市年表 および編集部調べ

【解説】確かに当時は寂しくて怖い街だったのでしょう。1970年1月末には三丁目の60軒(それしか建っていなかった)のうち18軒が窃盗にあった事が報告されていました。当時は普通車の通行は少なかったのですが、まだ造成中の所もあってダンプカーが走っており、小さい子供だけの通園は危険でした。

開園の年の年末にようやく スーパーやまか が開店しましたが、それまでは住宅地内にお店がなく、買い物は不便を極めました。
モノレールは開園前年に開通したのですが、山手線の冷房車両が試験運行開始したのが1970年で、1975年頃まで夏の通勤は地獄の暑さでした。(当時の横須賀線混雑率は300%超)。お父さんは痛勤に耐えて猛烈サラリーマン、お母さんは不便な住宅地で子育てに専念 という時代でした。

片瀬山住宅地の航空写真 1972年(幼稚園開園)、75年、77年と急激に家が建っているのがわかります。特に1丁目はまだわずかしか家が建っていないかった。(国土地理院航空写真)3枚目の1977年の写真は1丁目の北が切れているので1978の写真と連結

通園にまつわる色々
通園は親が同伴
A.「通園は親が同伴する事になっていたので大変でした」「住宅地内で歩いて行けるというのが良かったです」「何より近いのがうれしかったです」
(編集部注:当時はまだ「園バス」というのは一般的ではありませんでした)
1丁目と2丁目の間の近道が寂しかった
A.「当時1丁目は建物がまだ少なくそのせいで風が強かったのです。そして北公園手前からやまか方面に都市計画道路予定地沿いに流れる川がありました。私の住む1丁目から2丁目方面に抜ける近道はここを横切る細い道で、当時は一本橋と言われた板敷の橋があったのです。そういう寂しい道を親子で通園したのですが大変でした」

1丁目と2丁目をつなぐ道(黄色点線)と商業施設の変遷 航空写真拡大図 1972年頃は都市計画道路予定地内を小さな川が流れていてそれを斜めに横切る道があり、ここに板橋がかかっていたらしい。トンネル部分が埋められて川がなくなり現在の直線の道になりました。1972年にはお店等は何もありませんが、その後やまか、銀行、駐在所、大坂の商店群が順にできていく様子がわかります。
建設当時の幼稚園内部の写真 遠藤 現さん提供 天井が高くて広々とした園内 床暖房のおかげで園児は冬も遠慮なく床に寝転がって遊ぶことができました。

素晴らしい建物と施設設備
Q.幼稚園での毎日の生活についてはいかがでしたか?
A.「建物が素敵でしたね」「床暖房があったのは素晴らしかったです。今から50年前ですよ!」「サイコロ椅子というのがありました」「遊具はすべて木でできてました」

ということで、幼稚園の閉園の頃までちゃんとあったサイコロ椅子の写真がこれです。平成25年(2013年)の卒園アルバムから見つけてきました。

イスにも仕切りにも踏み台にも置き台にもなる丈夫なものでした。
花を置く台にもなっています

Q.色々ご苦労もあったのでしょうが、良かったこと、印象に残ること等はいかがでしょうか?
よく面倒を見て下さった先生
A.「先生が卒園式で涙を流していたこと。子供が3月生まれで小さくて大変だったのですがよく面倒を見て下さったこと。他の子の後ろになりがちだった。」
A.「園長先生も良い方でした。教育方針も良かった」「こどもが先生になついていてよく面倒を見て下さった。園長先生も一人ひとりに似顔絵を描いて、きめ細かい配慮をしてくれました」
A.「おかげで優しい子供に育ったと思う」「最初の集団生活で段々成長していく姿を見て、頼もしく感じてました」
運動会やイベントの思い出あれこれ
A.「運動会で子供と手をつないで走ったこと」「大玉転がしや夫婦での徒競走、親も参加する二人三脚とかいろんな種目があった」「誕生日会に親も呼ばれて着物で参加したこと」
A.「父親参観日に出席したこと」「敬老の日に祖父母も招待されたこと」「園内の桐の木に紫の花が見事に咲いていたこと」(←この桐の木は残念ながら伐採されてしまいました。この件についてはこちら
卒業後も・・・
A.「卒園式の梅の木から毎年梅干しを作っています。孫も大好き」(ほぼ全員)(梅の木についてはこちら)「卒園式にいただいた梅の木が枯れてしまった際、偶然会った園長先生に梅の木をいただいた。」「兄弟分2本あります」
A.「M先生(片瀬山在住)もよくしてくれたのですが、先日お会いした際も息子の事をよく覚えていてくれました」
園児だった方から 記憶に残ったこと
A.「お泊り会は私は楽しみにしていたけど、母は不安そうでした」
A.「ドッジボールが体にあたって転んでけがをしたこと」
A.「幼稚園の時の同窓生が中学、高校と一緒になると親近感があった」「家が近所の園の友達とは家族ぐるみのつきあいになった」「お遊戯会で星の王子様役をしたこと」「幼稚園からプールまで水着でクラス全員で歩いていった」
ーーーーーーーーーーーーーー
多くの卒園生の心の母港となっていたポーロニア学園片瀬山幼稚園は惜しまれながら、2017年3月に閉園し、建物は取り壊されました。幼稚園の入口の門の銘板には特徴的な「片瀬山」のロゴが使われていました。このロゴは住宅地の販売開始の時カタログに採用されて以来50年たってなお住宅地内に残っていたのでした。

片瀬山幼稚園の門の銘板 卒業生の方のブログ あらやしき歯科医院ブログ から(←こちら

ポーロニアはラテン語の桐という意味です。片瀬山幼稚園の建設にあわせて三井不動産により設立されたポーロニア学園ですが、その名前で千葉市美浜区茨城県守谷市に現在も幼稚園があり、その精神と桐をモチーフにした校章は受け継がれています。

(昭和55年卒園記念の表紙の校章)
各幼稚園の校章は各HPを参照下さい

今回の取材に際しては大変多くの方のご協力、写真の提供を頂きました。お礼を申し上げます。今回は卒園生の父兄の方による特別取材チームによる記事となっています。特に断りのない写真は取材チームメンバーが所有・承諾をいただいた写真です。(Reported By Y & U & Special Project)